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与謝蕪村 よさ ぶそん

朝日新聞掲載「キーワード」の解説

与謝蕪村

摂津国毛馬(けま)村(今の大阪市都島区)生まれ。江戸で俳諧などを学んだ後、京都を拠点に活動し、丹後讃岐も訪れた。有名な句に「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」。新出句の確認までは約2900句が知られていた。

(2016-12-27 朝日新聞 朝刊 文化文芸)

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デジタル大辞泉の解説

よさ‐ぶそん【与謝蕪村】

[1716~1784]江戸中期の俳人・画家。摂津の人。本姓は谷口、のち与謝と改める。蕪村は俳号。別号、宰鳥・紫狐庵。画号、四明・長庚・謝寅など。江戸に出て俳人早野巴人(はやのはじん)(夜半亭宋阿)に入門。諸国放浪後、京都に定住、のち夜半亭2世を名のった。浪漫的、絵画的な俳風を示し、「春風馬堤曲」などの新体の詩も創作、中興俳諧の中心的役割を果たした。絵画では、池大雅(いけのたいが)とともに日本南画の大成者とされる。著「新花摘(しんはなつみ)」「夜半楽」「蕪村句集」など。
大野洒竹による評伝。明治30年(1897)刊。

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百科事典マイペディアの解説

与謝蕪村【よさぶそん】

蕪村

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

与謝蕪村 よさ-ぶそん

1716-1784* 江戸時代中期の俳人,画家。
享保(きょうほう)元年生まれ。20歳ごろ江戸にでて早野巴人(はじん)(夜半亭宋阿)に俳諧をまなぶ。師の死後は関東,奥州を遊歴し,宝暦元年京都にうつる。写実性,浪漫性,叙情性にとむ俳風で中興期俳壇の中心的存在となる。晩年は蕉風(しょうふう)復興を提唱。画家としては文人画を大成,代表作に池大雅との合作「十便十宜図」がある。天明3年12月25日死去。68歳。摂津東成郡(大阪府)出身。本姓は谷口。俳号は別に夜半亭,紫狐庵など。著作に俳体詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」,句日記「新花摘(しんはなつみ)」など。
【格言など】しら梅に明くる夜ばかりになりにけり(辞世)

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朝日日本歴史人物事典の解説

与謝蕪村

没年:天明3.12.25(1784.1.17)
生年:享保1(1716)
江戸中期の俳人,画家。俳号として別に夜半亭,落日庵,紫狐庵など。画号は長庚,春星,謝寅など。摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区)生まれ。本姓は谷口氏と伝えられるが,丹後(京都府)の与謝地方に客遊したのち,与謝の姓を名乗る。20歳ごろ江戸に出て夜半亭(早野)巴人の門人となるが,巴人没後,結城の砂岡雁宕ら巴人門下の縁故を頼り,約10年にわたり常総地方を歴遊する。宝暦1(1751)年,36歳のとき上京,その後丹後や讃岐に数年ずつ客遊するが,京都を定住の地と定めてこの地で没した。この間,明和7(1770)年,55歳のときには巴人の後継者に押されて夜半亭2世を継いだが,画業においても,53歳のときには『平安人物志』の画家の部に登録されており,画俳いずれにおいても当時一流の存在であった。池大雅と蕪村について,田能村竹田が『山中人饒舌』の中で「一代,覇を作すの好敵手」と述べている通り,早くから文人画の大家として大雅と並び称せられていた。俳諧はいわば余技であり,俳壇において一門の拡大を図ろうとする野心はなく,趣味や教養を同じくする者同士の高雅な遊びに終始した。 死後松尾芭蕉碑のある金福寺に葬るように遺言したほど芭蕉を慕ったが,生き方にならおうとはしなかった。芝居好きで,役者や作者とも個人的な付き合いがあり,自分の家で人に知られないようにこっそりと役者の真似をして楽しんでいたという逸話がある。小糸という芸妓とは深い関係があったらしく,門人の樋口道立 から意見をされて「よしなき風流,老の面目をうしなひ申候」とみずから記している。彼が故郷を出たのは何か特殊な事情があるらしく,郷愁の思いを吐露しながらも京都移住後も故郷に帰った形跡はまったくない。<参考文献>森本哲郎『詩人与謝蕪村の世界』,尾形仂『蕪村自筆句帳』,清水孝之『与謝蕪村の鑑賞と批評』,山下一海『戯遊の詩人与謝蕪村』

(田中善信)

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江戸・東京人物辞典の解説

与謝蕪村

1716〜1783(享保元年〜天明3年)【俳人】日常生活を絵画的な美しさで、五七五の俳句に切り取った。 芭蕉・一茶と並び称される俳人。画家。摂津国に生まれ、江戸に出て俳人早野巴人師事宇都宮、京都、讃岐など各地を遊歴し、画と俳句を修行。俳諧の編著に『夜半楽』など、画に池大雅との競作十便十宜画冊』などがある。その絵画的描写は、明治の子規らによる近代俳句運動に影響を与えている。

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大辞林 第三版の解説

よさぶそん【与謝蕪村】

1716~1783) 江戸中期の俳人・画家。摂津の生まれ。本姓、谷口、のち与謝氏。別号、宰鳥・夜半亭、画号、長庚・春星・謝寅など。池大雅と「十便宜図」を合作するなど日本文人画を大成する一方、俳諧は早野巴人はじんに学び、「景気(叙景)」「不用意(即興)」「高邁洒落(離俗)」を柱に、写実的・古典趣味的・浪漫的な俳風を形成した。晩年、中興俳壇にあきたらず、「俳力(俳諧性)」の回復を唱え、「磊落(自在性)」の境地を志向した。編著「新花摘」「夜半楽」「此ほとり」「昔を今」など。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

与謝蕪村
よさぶそん

[生]享保1(1716).摂津
[没]天明3(1783).12.25. 京都
江戸時代中期の画家,俳人。本姓,谷口。別号,宰町,宰鳥,落日庵,紫狐庵,夜半翁,夜半亭2世。画号,長庚,春星,東成,謝寅 (しゃいん) など。豊かな農家に生れたが,両親と家産を失い,17~18歳頃江戸に下り,絵画,俳諧を志した。俳諧は内田沾山,夜半亭早野巴人に師事。寛保2 (1742) 年巴人没後,下総結城の友人砂岡雁宕 (いさおかがんとう) 方に身を寄せ,以後 10年間常陸,下総を中心に放浪生活を続け,画俳の基礎を固めた。延享1 (44) 年 29歳のとき蕪村と改号,翌年和詩『北寿老仙をいたむ』を書いた。宝暦1 (51) 年京都へ移住,以後約 10年間,画業を主とし画名大いにあがった。明和7 (70) 年夜半亭2世を継ぎ,京都俳壇の中心人物となり,池大雅と合作の『十便十宜』を描き,画俳ともに大成期を迎えた。句日記『新花摘』,連句『桃李 (ももすもも) 』 (80) ,追悼集『から桧葉』などがある。高い美意識や教養に基づく感性的,ロマン的作風で,中興期俳壇を代表する俳人。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

与謝蕪村
よさぶそん

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世界大百科事典内の与謝蕪村の言及

【蕪村】より

…江戸中期の俳人,文人,画家。姓は谷口,のち与謝(よさ)と改める。俳号は落日庵,紫狐庵,夜半亭など,画号も四明,朝滄(ちようそう),長庚,春星など数多い。摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれ,享保(1716‐36)の末年に江戸に下った。俳諧を学ぶが,1737年(元文2),京から江戸に戻った夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))の内弟子となり,宰町の号で江戸俳壇に出る一方,絵画にも親しむ。また服部南郭(なんかく)の講義にも列席したらしい。…

※「与謝蕪村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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