藤野保
ふじのほ
「和名抄」和気郡藤野郷の郷名を継ぐものか。金剛川右岸の現藤野を遺称地とし、一帯に推定される。建仁三年(一二〇三)の備前国麦惣散用帳(東大史料編纂所蔵)に、経阿弥陀仏が収納責任の米富沙汰一八一石余に「吉永・藤野并波智・三宅郷吉用別結解」とある。鎌倉末期に八塔寺(現吉永町)と保内の下地と材木をめぐり相論となり、嘉元二年(一三〇四)九月二〇日の六波羅下知状(写、八塔寺文書)で下地は地頭の進止、寺より一里四方の材木は寺家に寄進されたものとされた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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