日本歴史地名大系 「安養寺」の解説
安養寺
あんようじ
〈京都・山城寺院神社大事典〉
〔天台宗から時宗へ〕
その後の経緯は明確でないが、建久年中(一一九〇―九九)に天台座主慈鎮(慈円)が中興して隠棲、焉ニ、山下ニ有リ
吉水
故ニ称ス
吉水ノ和尚ト
」とみえる。慈鎮の後住は法然の弟子で多念義流(小坂義派、長楽寺流とも)の隆寛(長楽寺住持)が兼住した。その後、専修念仏弾圧で廃絶しかけたが、時の住持であった光英(もと霊山正法寺の住持)は寺の護持を国阿に頼み、以後当寺は国阿の支配するところとなり、国阿の弟子宣阿が住持するところとなった(国阿上人絵伝)。これ以降当寺は時宗の霊山派となり、住持は代々宣阿弥陀仏(宣阿)の阿弥号を踏襲する。応永年中(一三九四―一四二八)住持盲僧源照(源昭とも)は琵琶をよくし、宮中で奏せんことを当寺本尊に祈念し、ついに後小松院に召され、恩寵を得て紫衣を授かったという。これが盲人紫衣の初めとされる(都名所図会)。宝徳三年(一四五一)源照は五条
〔東山千句〕
応仁の兵乱で一時廃絶したがまもなく再興されたと思われ、永正一五年(一五一八)八月には連歌師宗長が、細川氏の被官で摂津
安養寺
あんようじ
今の安養寺は享保二年(一七一七)に二町余り下から移転した。庫裏東側の平坦地はかつて朝原寺一山の中心をなす堂宇(仮に大堂とよぶ)があったと考えられる場所で、ここからは長承元年(一一三二)に建立された現京都市左京区
安養寺
あんにようじ
八幡山西麓、大手門跡に位置する。遠郷山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。康元元年(一二五六)近江国の佐々木定道西信が親鸞に帰依し、同国
安養寺
あんにようじ
日野川左岸の
中世には寺領三〇〇石と伝えられるが、近世には寺領一〇〇石を山市場村内に与えられていた。寺領付与の時期は不詳だが、元和四年(一六一八)の池田光政による検地実施以前、中村氏の時代とも考えられる。
安養寺
あんようじ
備前国屈指の天台宗の古刹。山号は照光山、本尊阿弥陀如来。JR山陽本線の和気駅から東方約一キロ、吉井川の支流
天和四年(一六八四)の由来書上(寺蔵文書、以下同文書)など近世の寺伝によると、孝謙天皇の勅願で報恩大師が備前国に創建した四八ヵ寺の一つ。のち康保元年(九六四)播磨国書写山
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
真宗大谷派。鉤山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝によれば応永二三年(一四一六)良舜の開基という。享徳三年(一四五四)四月一七日、浄性が蓮如書写の往生要集延書(明性寺蔵)を与えられており(同書奥書)、この頃本願寺の傘下に参入したと思われる。「本福寺由来記」のなかの「御本寺様之生身之御影像本福寺ヘ御下向之事」と題された部分に、「ヤカテ江州栗本ノ郡安養寺カウシ坊ノ道場ヘ御下向アリテ七十日ハカリ御座候ナリ(中略)応仁元ノ暦交鏡上旬ノ比、当所下ハヽカラサキノハマヘ御船ヲツケ申サレ、馬場本福寺道場ヘ御光臨ヲハシマシマシ」とあり、寛正六年(一四六五)延暦寺衆徒による京都大谷本願寺の破却後、蓮如は一時根本の御影(親鸞木像)を携えて当寺(幸子坊道場)に滞留、のち
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
渡庄目録(九条家文書)にある「美作国安養寺」は当寺のことか。山号間山から
「東作誌」倉敷村の項によれば、倉敷には古来寺院がなかったため
安養寺
あんにようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
創立年月はつまびらかでないが、京都醍醐寺理性院厳助の「信州下向記」に天文二年(一五三三)五月「今日文永寺衆・安養
永禄一一年(一五六八)には、武田信玄朱印状(安養寺文書)として「信州伊那郡阿嶋郷之内旧御寺領拾緡之所、被還付」とあり、天正二年(一五七四)武田勝頼は、部将日向虎頭に毘沙門堂修復を命じている。
安養寺
あんようじ
安養寺
あんにようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんにようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
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安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
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安養寺
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安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
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安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
安養寺
あんようじ
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報