日本歴史地名大系 「衣笠村」の解説 衣笠村きぬがさむら 神奈川県:横須賀市衣笠村[現在地名]横須賀市衣笠町村の三方は丘陵に囲まれ、北は小矢部(こやべ)村、南は武(たけ)村、西は長坂(ながさか)村・下平作(しもひらさく)村、東は大矢部(おおやべ)村に接する。小田原衆所領役帳に高橋平左衛門「五拾貫文 衣笠」とある。元禄一一年(一六九八)の衣笠村諸色村鑑(県史六)に田方高一四四石二斗余、反別一二町八反余、畑方高三六石七斗余、反別七町余、家数三六、ほかに寺三、男一二五、女一一二とある。文化八年(一八一一)の村明細帳(大塚文書)によると、家数四〇、人数一八二、商人一、家大工一、建具屋一、石屋二、小物成として大豆三俵、小豆六斗を納める小村であった。天保初期の家数四〇(風土記稿)。 衣笠村きぬがさむら 高知県:南国市衣笠村[現在地名]南国市稲生(いなぶ)鉢伏(はちぶせ)山の東南麓に位置する。「土佐州郡志」は隣村の下田(しもだ)村との間に「無界限」として一括記載している。元禄郷帳には下田村の枝郷とある。村名は応永二年(一三九五)六月一八日付の足利義満寄進状案(吸江寺文書)に「片山庄盖村」とみえ、吸江(ぎゆうこう)庵(現高知市)に寄進されている。元禄地払帳によると総地高二二三石余、うち本田高二〇二石余・新田高二一石余。本田は蔵入地一〇二石余、残りは吸江寺の寺領、新田のうち貢物地二一石余、残りの二斗余は一名の領知。幕末期の新田高は六三・九七石(明治三年郷村高帳)。寛保郷帳では戸数五〇、人数二二〇、牛二、馬三。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by