日本歴史地名大系 「西原間切」の解説 西原間切にしばるまぎり 沖縄県:沖縄島中部西原町西原間切沖縄島の中部、現西原町に現那覇市首里北部を加えた地域にあたる。中頭方に属する。北は中城(なかぐしく)間切・宜野湾(じのーん)間切、西は浦添(うらしー)間切と首里、南は大里(うーざとう)間切に接する。里積記によれば首里城より幸地(こーち)村の間切番所までの距離は七合二勺二才(約二六町)。真和志(まーじ)・南風原(ふえーばる)両間切とともに琉球王府の直轄地であった。古琉球期の行政範囲は近世の真和志間切北部にまで及んでいた。嘉靖一五年(一五三六)五月一三日、国王名で儀間真孟に発給された辞令書(田名家文書)に「にしはらまきりのあめくのさとぬしところ」(西原間切天久里主所)という給地が与えられており、天久(あみく)村(現那覇市)が近世に真和志間切に属していることから古琉球期の間切の範囲がわかる。「おもろさうし」巻一〇の三〇に「かちやもり」のシマ名が登場する。正保国絵図では「西原間切(にしはらまぎり)」は二千八九七石余。琉球国高究帳も同高で、うち田二千一二五石余(うち永代荒地五五八石余)・畠七七一石余。一二筆で一町一島一四ヵ村が記される。寛文八年(一六六八)の琉球国郷帳では間切の高と田高は同じで、畠七六二石余・桑役九石余。「琉球国旧記」には幸地・棚原(たなばる)・翁長(うなが)・呉屋(ぐや)・津花波(ちふあぬふあ)・小橋川(くわしちや)・内間(うちま)・掛保久(かきぶく)・嘉手苅(かでいかる)・小那覇(うなふあ)・我謝(がーじや)・与那城(ゆなぐしく)・安室(あむる)・桃原(とーばる)・小波津(くふわち)、石嶺(いしんみ)(儀保とある)・平良(てーら)・末吉(しーし)(現那覇市)の一八村が記される。このうち棚原は浦添間切、末吉は真和志間切から編入された。絵図郷村帳をみると、これに加えてのち真和志間切に組込まれるあめく(天久)・めかる(銘苅)・た田(多和田)・あじや(安謝)の四ヵ村(現那覇市)、のちに勝連(かつちん)間切に分離する津堅(ちきん)島(現勝連町)、現不詳の城・まさけな(真境名)・こちひら(東風平)の三ヵ村が属していた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by