西国街道(読み)さいごくかいどう

日本歴史地名大系 「西国街道」の解説

西国街道
さいごくかいどう

古代山陽道の後身で、ルートは細部はともかく大筋においては一致する。西国街道は通称で、近世の公称は山崎やまさき通。山崎通には宿駅制度の整備に伴い、六宿駅が設けられていた。

〔中世〕

古代律令制の崩壊に伴い、平安京と西国諸国を結ぶ官道としての山陽道も、中央権力の地方統治にかかわる機能をしだいに失い、庄園領主らの貢納・交易路、西国武士集団の軍事的要路、あるいは在京文人・僧侶らの西国旅程路としての性格を強めていった。中世を通じて現れる北摂の古城・古戦場などが、この街道に沿い、あるいは芥川あくたがわ(現高槻市)の場合にみられるように道路の屈曲(遠見遮断)にまで及んでいるのはその証左であろう。「平家物語」「太平記」「足利季世記」「信長公記」など各時期の軍記で、この街道の諸部分を経由して軍勢が往来した記事は枚挙にいとまがない。しかし、近世に公称山崎通として固定するこの街道が、中世になお一般に山陽道とよばれていたか、西国街道の通称がすでに起こっていたかについては明らかではない。「西国路」が、近世山陽道の別称であることから、西国街道の呼称も、早くとも室町期以前にはさかのぼらないものと思われる。同様に古代山陽道が、その立地のまま中世以後現在に至る街道に継承されているのではない。昭和四五年(一九七〇)郡家川西ぐんげかわにし遺跡(高槻市)発掘で確認された、上下二層にわたる側溝をつけた山陽道の遺構と、現在の西国街道とは南北で一五メートルの隔りがある。方位から、高槻たかつき安満東あまひがしの町以西、芥川二丁目までの直線路は、古代山陽道に重設されたものとされるが、これら街道敷変更の要因には、先述の軍事・防備の必要のほか、条里制下の耕地侵略、庄園内部の名田拡張の影響などによる山麓への迂回(三島郡島本町付近)、河川修復の影響などが考えられる。

京からの旅行路としては、有馬ありま温泉(現神戸市)への経由路として顕著である。早くは「新勅撰集」の藤原長家の歌の詞書に「宇治関白有馬の湯にまかりける道にて秋の暮をおしむ歌よみ侍りけるに」とあり、宇治関白藤原頼通らは、歌に詠込まれているように「神なびの杜」(現高槻市神内)の宿から西国街道を経由している。宝徳四年(一四五二)四月に、京都相国寺僧瑞渓周鳳は一僧を従え有馬湯治に出かけるが、七日に京を発ちかつら川を渡り、革島かわしま西岡にしのおか(現京都市西京区)を経て、寺内(現京都府乙訓郡大山崎町か)の新関を通り、山崎やまさき宿(現同郡大山崎町・島本町)で昼食、これより広瀬ひろせ(現島本町)神内こうないかじおれ阿摩あま(安満)―芥川―禰宇志ねうじ(女瀬の訛称か)宮田みやだ(以上現高槻市)太田おおだ宿河原しゆくがわら(以上現茨木市)鞋掛わらじかけ(現茨木市の郡山付近か)を過ぎ、勝尾かつお(現箕面市)参道の華表を右にみて、粟生あお小野原おのはら萱野かやのまき(牧落)を経て瀬川せがわ(以上現箕面市)に到着、油屋に止宿している(温泉行記)


西国街道
さいごくかいどう

京都の東寺口とうじぐち(現南区)より乙訓郡を経て山崎やまざきより摂津国に抜ける街道。「山城名跡巡行志」に西国路として「東寺口ヨリ至向日野一里十二町歴吉祥院・石原・上久世・大藪・下久世・寺戸等、自向日野山崎駅関戸一里二十四町摂州島上郡界、歴開田・馬学・神足・調子・円明寺自東寺口至山崎通計三里也」と記す。通過村名もこれで概略示されるが、江戸時代の道路や町筋は、現在も残されている所が多い。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の西国街道の言及

【山崎街道】より

…西国街道ともいう。京都から北摂山麓を通って西宮へ出,ここで大坂から尼崎を通って西宮へ入る中国路(山陽道)に合する街道。…

※「西国街道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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