宿駅制度(読み)しゅくえきせいど

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宿駅制度
しゅくえきせいど

古代律令(りつりょう)制度による駅制(駅伝制)が崩壊したのち、それに類似の制度が発達し、近世になって整備されたが、それを総称して宿駅制度という。宿駅制度の特徴は、旅行者や物品、書状などを輸送するために、駅または宿とよばれる集落をつくり、そこの住民に輸送を義務づけ、輸送はリレーにより次の宿駅までに限ることとし、また旅行者の休泊施設を整えておいたことである。宿駅が提供する人馬や休泊施設は公用旅行者が優先的に使用し、余裕があれば一般旅行者も利用した。駅制崩壊後、平安時代後期より交通の要地に宿が発達して人馬の供給や休泊場所の提供をしたが、鎌倉幕府は京都と鎌倉間の宿に早馬(はやうま)を置かせた。室町幕府は伝馬の使用を許可する証文を発したが、その方法は戦国大名によって一般化し、江戸幕府になって整備された。

 徳川政権は開府以前の1601年(慶長6)より、東海道、中山道(なかせんどう)などに宿駅を設置し、人馬の提供を義務づけた。初めは1宿に36疋(ぴき)であったが、開府後の寛永(かんえい)(1624~1644)ごろには、東海道各宿は100人・100疋、中山道では50人・50疋(木曽路(きそじ)の11宿をはじめ、信濃(しなの)には25人・25疋の宿もある)、日光道中、奥州道中、甲州道中などでは25人・25疋を原則とした。各宿では1日にこの数を超えると、近隣の村から人馬の提供を受け、その村を助馬(すけうま)の村といった。初めは宿と村との相対(あいたい)の契約であったが、1637年(寛永14)には東海道の宿では、幕府で指定した村がつけられるようになり、さらに1694年(元禄7)には幕府は東海道と中山道の各宿ごとにその村を指定した。これを助郷(すけごう)という。宿では非常用に備えて若干の人馬を残しておいて助郷に触れ当てたが、残しておく人馬を囲(かこい)人馬といい、数人・数疋であった。

 この宿や助郷の人馬を使用できるのは、公用旅行者や武士などで、公用旅行者はその身分や用務によって、将軍が発行する伝馬朱印状、老中や所司代などが発行する証文を与えられ、それに記載されている数までは無賃で使用できたが、それを超えると、道中奉行(ぶぎょう)が定めた公定の賃銭を払った。公定賃銭は御定(おさだめ)賃銭といい、本馬(ほんま)・乗掛(のりかけ)・軽尻(からじり)・人足の4種の賃銭を定めた。本馬は荷物40貫、乗掛は人が乗り、荷物を20貫ぐらいまで、軽尻は荷物20貫または人が乗って荷物5貫目ぐらいまで、人足は荷物5貫目であった。賃銭は距離に応じたが、山路などは考慮された。本馬と乗掛(乗懸、乗尻ともいう)は同一賃銭、軽尻はその3分の2、人足は本馬の半分が標準であった。参勤交代の大名や藩士などは公定賃銭で使用できたが、その数には限度があり、それを超えれば相対賃銭を払った。一般庶民は宿立(しゅくだて)人馬を使用することはできず、すべて相対賃銭であった。相対賃銭は御定賃銭の2倍ぐらいであった。渡船場でも賃銭が定められていたが、武士は無賃であった場所もかなりある。宿では幕府の公用文書および御用物を運ぶために継飛脚(つぎびきゃく)の人足を用意しておいた。大名飛脚や町飛脚などものちには宿立人馬を利用することが多くなったので、宿は休泊・運輸・通信の業務を受け持ったのである。宿駅制度は公用旅行や公用書状の運搬に欠くことのできないものであったから、地子(じし)の免除や救済金穀の下付などで幕府は補助したが、18世紀以降は宿も助郷もその負担に苦しみ、助郷免除の嘆願や一揆(いっき)が起こるようになった。幕末には公用旅行者の増加で、宿駅制度は崩壊寸前であったが、1868年(明治1)に新政府は助郷制度を改め、また問屋などの宿役人や助郷惣代(そうだい)を廃止して伝馬所取締役を置いたが、72年に宿、助郷を廃止し、すべて相対賃銭をもってする陸運会社などの営利会社に移った。

[児玉幸多]

『大山敷太郎著『近世交通経済史論』(1943・国際交通文化協会/復刻版・1967・柏書房)』『児玉幸多著『近世宿駅制度の研究』(1957・吉川弘文館)』『豊田武・児玉幸多編『体系日本史叢書24 交通史』(1970・山川出版社)』

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