朝日日本歴史人物事典 「西山順泰」の解説
西山順泰
生年:明暦3(1657)
江戸前期の儒学者,対馬藩(長崎県)藩士。もと阿比留氏,のち西山氏に改める。字健甫,通称健助,西健甫ともいう。父順益は医者として対馬藩に仕え,順泰もはじめ医術を学ぶがそれに満足せず,経史の学を好み,18,9歳にしてその学力は藩主に聞こえ,藩主は彼を医師から祐筆に改めさせた。28歳のとき藩主宗義真の許可を得て江戸に上り,木下順庵について学ぶ。僻遠の地のため就学の遅れたことを悔やみ刻苦精励,学業大いにあがるという。新井白石とも親しく,白石の順庵への入門には順泰のなかだちがあったと白石は回想している(『折たく柴の記』)。32歳で早世し,下谷養玉寺に葬る。木下順庵は大いに惜しみ碑銘を製した。<参考文献>東条琴台『先哲叢談後編』2巻
(沼田哲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報