対馬藩(読み)つしまはん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩
つしまはん

対馬国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中(ふちゅう)(長崎県対馬市厳原町(いづはらまち))に藩庁を置いた外様(とざま)藩。府中藩厳原藩ともいう。藩主は宗(そう)氏で、中世以来の守護大名近世大名に転化した数少ない例。鎖国下の近世日本が正式な国交をもった唯一の独立国朝鮮(李氏(りし)朝鮮)との外交貿易業務を、独占的に担った。そのため家格は高く、対馬島は生産力が低く公的には無高(むだか)とされたのにもかかわらず、10万石以上の格とされていた。領知は対馬島のほか、1595年(文禄4)に薩摩(さつま)に1万石(1599年=慶長4年に肥前(ひぜん)に換地)、1817年(文化14)に肥前、筑前(ちくぜん)、下野(しもつけ)に2万石が加えられたが、前記の格づけは変わらず、実態としても藩財政の過半は朝鮮貿易に依存していた。その性格から、対馬と各領地、および江戸・京都・大坂の蔵屋敷のほか、壱岐勝本(いきかつもと)、博多(はかた)(のちに廃止)、長崎にも蔵屋敷を置き、朝鮮釜山(ふざん)の倭(わ)館には数百名の家臣・商人を常駐させていた。初期には権力構造や在地支配に中世以来の形態を強く残していたが、1631年(寛永8)の柳川一件(やながわいっけん)(国書改竄(かいざん)事件)後の諸改革によっていちおう近世的な藩に脱皮した。

 しかし在地の構造にはほとんど変化はなく、小農自立が未熟なままで近代を迎えた。そのため同藩には他藩のような百姓一揆(いっき)は1件もない。17世紀後半は貿易の活況、銀山再開発の成功などで西国一の分限(ぶんげん)といわれたが、18世紀に入ると貿易の不況と銀山の衰退のために財政難に陥り、相次ぐ倹約と幕府の財政援助によっても大勢は変わらず、廃藩時には膨大な藩債を残した。一方、文教政策には早くから着手し、1685年(貞享2)に小学校、1788年(天明8)思文館(しぶんかん)、1864年(元治1)に日新館(にっしんかん)を設置した。幕末には、1861年(文久1)のロシア軍艦の占拠事件をはじめとする海防問題と、1800年(寛政12)の百余輩(ひゃくよはい)事件、1864年の勝井(かつい)騒動などの内訌(ないこう)が相次いだ。1866年(慶応2)の大政奉還後も明治維新政府から朝鮮外交と貿易を担当することを許され、廃藩までその役割を担った。版籍奉還後、厳原藩と改称、廃藩置県後、厳原県、伊万里(いまり)県、佐賀県を経て、1872年(明治5)に長崎県に編入。

[荒野泰典]

『『長崎県史 藩政編』(1963・吉川弘文館)』『泉澄一著『対馬藩の研究』(2002・関西大学出版部)』

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改訂新版 世界大百科事典 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩 (つしまはん)

対馬国(長崎県)下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中に藩庁を置いた外様藩。藩主は宗氏,中世以来の守護大名から近世大名に転化した数少ない例。鎖国下の近世日本が正式な外交関係をもった唯一の独立国朝鮮との外交貿易を独占的に担った。領知は対馬島のほか,文禄・慶長の役で与えられた肥前基肄(きい),養父(やぶ)両郡1万石(田代領)と1817年(文化14)に財政窮乏の手当地として与えられた2万石があったが,対馬島は統一政権の検地を受けておらず,公的には無高で,格式のみ10万石以上とされた。また,対馬島は生産力が低く,朝鮮から米1万6000石余を輸入するほか,藩財政のかなりの部分を貿易に依存していた。その性格から,江戸・京都・大坂のほか,壱岐勝本(かざもと),博多(後に廃止),長崎に蔵屋敷を,朝鮮釜山に倭館わかん)を置いた。京・大坂では,輸入品の売りさばきと輸出品の調達,長崎では長崎奉行との外交貿易上の連絡と輸出品の調達,釜山倭館では日常の外交業務や貿易がなされ,数百名の家臣・商人がおり,監督のための役人や外交僧・医師なども常駐していた。また,田代領には代官所を設置。

 藩祖義智から義成の前半までは,貿易利潤の配分や在地の構造にも戦国以来の形態が残り,大名権力の基盤が弱かった。1635年(寛永12)柳川一件後,貿易利潤を藩庫に吸収したのをはじめ,領内総検地を実施し,家臣団の城下集住,府内士(城下居住の武士)と在郷給人(郷士)の身分区別の明確化など兵農分離策を促進した。これらの政策は大浦権大夫の寛文改革(1660-65)による,土地制度と年貢徴収体制の整備,府内士の地方知行制の廃止と禄制改革,寺社領などの私領地の再配分による蔵入地の拡大と均田制度による農民自立政策などによって,ほぼ完成した。また,城下町の整備,藩主居館の築城にともなって職制機構も整備され,釜山倭館はより便利な草梁(釜山市内)に移転改築された。さらに朝鮮往来を便利にするため大船越を開削,抜荷対策で鰐浦など4ヵ所に番所,島内各地に遠見番を置いた。こうして一応近世的な藩の形態は整ったが,在地では中世以来の構造を払拭(ふつしよく)しきれず,給人が島内領地の半分以上を占めて家父長制的経営を展開,かつ奉役(うけたまわりやく),村下知人(他藩の名主)などの役職も独占し,一方農民は零細な経営規模と過重な夫役負担のため自立性が弱かった。そのため他藩のような百姓一揆は1件もない。17世紀後半は藩政改革の成功,朝鮮貿易の活況,義成の代からの銀山再開発の成功と盛況によって,西国一の分限といわれた。しかし18世紀には朝鮮貿易の不況と銀山の衰退により財政難に陥り,あいつぐ倹約令の施行と頻繁な幕府の財政援助がみられ,1776年(安永5)からは毎年1万2000両の給付を受けた。だが大勢は変わらず,廃藩時には膨大な藩債を残した。また,1811年(文化8)国書交換が対馬で行われる(易地聘礼(えきちへいれい))など朝鮮外交にも新たな問題を生じ,欧米列強のアジア進出により1861年(文久1)ロシア軍艦対馬占領事件などが起こった。そのため藩の内訌も激化,1800年(寛政12)の百余輩事件,64年(元治1)の勝井騒動などが起こった。67年(慶応3)大政奉還後,維新政府から朝鮮外交と貿易の担当を許された。69年(明治2)版籍奉還後厳原(いづはら)藩と改称。71年廃藩置県後,伊万里県を経て,72年長崎県に移管された。
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藩名・旧国名がわかる事典 「対馬藩」の解説

つしまはん【対馬藩】

江戸時代対馬(つしま)国下県(しもあがた)郡与良(よら)郷府中(ふちゅう)(現、長崎県対馬市)に藩庁をおいた外様(とざま)藩。藩校は日新館(にっしんかん)。鎌倉時代以降、宗(そう)氏が支配していたが、1587年(天正(てんしょう)15)豊臣秀吉(とよとみひでよし)九州征伐の際、宗義智(よしとし)が秀吉から対馬国一円を安堵(あんど)された。義智は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に出陣したほか、関ヶ原の戦いでは義父の小西行長(こにしゆきなが)の関係から西軍についたものの、戦後に徳川家康(とくがわいえやす)から所領を安堵され、朝鮮国との国交修復に尽力した。検地が行われなかったため石高は公的には無高(むたか)だったが、10万石以上の格式を持つとされた。幕府の鎖国政策のもとで朝鮮国との外交貿易を独占的に担い、この収入が藩財政の大部分を占めた。1635年(寛永(かんえい)12)の国書偽造事件以降に近世的な藩体制が確立したが、18世紀には朝鮮貿易が不振となり、財政難に苦しんだ。1861年(文久(ぶんきゅう)1)には、欧米列強のアジア進出を背景としたロシア軍艦による対馬占領事件が発生した。69年(明治2)の版籍奉還に伴い厳原(いづはら)藩と改称、2年後の廃藩置県で厳原県となり、その後、伊万里(いまり)県、佐賀県を経て、72年長崎県に編入された。◇府中藩ともいう。

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百科事典マイペディア 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩【つしまはん】

対馬島府中に藩庁を置いた外様藩。府中藩とも。藩主宗(そう)氏は中世以来の守護大名。文禄・慶長の役ののち,日本と朝鮮との国交回復に努力し,回復後は江戸幕府の朝鮮貿易を独占的に担った。領知は対馬,肥前国の一部など。格式は10万石格とされたが実高は少なく,貿易に依存していた。→朝鮮通信使
→関連項目雨森芳洲朝鮮人参座ロシア軍艦対馬占領事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対馬藩」の意味・わかりやすい解説

対馬藩
つしまはん

府中藩ともいう。江戸時代,対馬国 (長崎県) を領有した藩。のち厳原 (いづはら) 藩。藩主は代々宗 (そう) 氏。宗氏は鎌倉,室町時代以来の豪族で,天正年間 (1573~92) の義智が藩祖。義智は,豊臣秀吉の文禄・慶長の役の先頭を承って活躍し,さらに江戸幕府成立後は朝鮮王光海君との間に己酉 (きゆう) 条約を締結し,日鮮国交回復に功があった。その結果,宗氏は中世以来もち続けた朝鮮貿易の特権を得た。最初は1万石であったが,慶長 10 (1605) 年に 2800石を加増され,さらに同 12年には 10万石の格式が与えられた。藩政で注目されるのは元和3 (17) 年に起った「柳川一件」である。朝鮮外交の中心となった家臣の柳川調興と2代藩主義成が対立した事件で,この事件が解決して藩政は安定した。その後,文化 14 (1817) 年 13代義質のとき2万石を加増され,16代重正のとき5万 2000石となり,版籍奉還後厳原藩と改称して廃藩置県にいたった。外様,江戸城大広間詰。

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デジタル大辞泉プラス 「対馬藩」の解説

対馬藩

対馬国、府中(現:長崎県対馬市厳原(いづはら)町)を拠点に、対馬国と肥前国の一部を領有した外様藩。中世以来の守護大名、宗(そう)氏が近世大名に転化し、明治の廃藩置県まで当地を治めた。藩の財政は主に朝鮮貿易に依存していた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「対馬藩」の解説

対馬藩
つしまはん

府中藩(ふちゅうはん)

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世界大百科事典(旧版)内の対馬藩の言及

【異域・異国】より

…異国として外交関係を維持したのは,朝鮮国である。日朝関係の口は対馬藩であったが,それは朝鮮国との交隣を持続することと同時に,朝鮮国に対する押えの家役を担っていた。日朝関係では,幕府の監視力は強まっていったが,対馬藩の独自性は強く,貿易も対馬藩の独占であった。…

【勧農】より

…桑,楮(こうぞ),藍,紅花,サトウキビなどの加工原料作物の栽培を奨励し,農家副業としての農産加工業を興隆させ,流通過程を領主の直接的な掌握下に,あるいは領主財政と深い関係をもつ商人の掌握下に置き,農業生産の発展の成果を流通過程を通して領主が吸い上げる。後進地の対馬藩では,18世紀初頭のころ,焼畑農業から普通畑への移行を目的にした農業振興策が採用され,甘藷の導入,野猪の被害対策などが実施されているが,これは極端な低生産力地帯の特例である。【葉山 禎作】
[近代]
 明治維新後,勧農は政府の殖産興業政策の一環として推進されたが,農業奨励の政策(勧農政策)と,そのもとでおこなわれた諸事業(勧農事業)がある。…

【朝鮮通信使】より

…また,日本の儒者などの知識人は使節の一行との交歓によって新知識を得,人民は珍しい異国の文物に接するなど文化的影響も大きかった。 通信使は,幕府の命をうけた対馬藩の要請によって,派遣が決定された。一行は,正使・副使・従事官の三使官と随員から成り,正使は文官の堂上官で吏曹参議の格が与えられ,随員にも才幹優れた者が選ばれた。…

【日朝貿易】より

…朝鮮商人と,対馬の役人や商人との相対取引であるが,品目・数量の制約がなく,また兼帯の制成立後,貨物輸送が合理的になったため,しだいに取引量が増加していった。そこで対馬藩では,私貿易経営に重点をおき,1683年(天和3)専任担当官として元方役(もとかたやく)10名を組織し,利潤の向上につとめた。貿易内容は,封進・公貿易が銅,スズ,コショウ,ミョウバン,蘇木,水牛角を定品として輸出していたのに対し,私貿易は,隆盛するにしたがって大量の銀が輸出され,代りに中国産の生糸(白糸),絹織物,チョウセンニンジンが輸入されるようになった。…

【人参座】より

…薬用人参は18世紀半ばまでは輸入がほとんどで,朝鮮人参と唐人参があった。朝鮮人参は対馬藩が独占的に輸入販売し,江戸屋敷での屋敷売りのほか,1673年(延宝1)人参座を設け座売りもした。18世紀以後の輸入不振によりやがて廃止。…

【肥前国】より

…32年に藩主鍋島宗茂は対策が不適切として幕府から塞(ひつそく)の処分を受けた。一方,対馬藩田代領では,32年の死亡者312人であり,1717年の田代領人口は1万2031人なので,飢饉の年の死亡者はそれほど多くない。田代領では富農富商による救済金の拠出とそれを基にした買米の実施,対馬からの運送などの対策がとられた。…

【府中】より

…宗氏が府中を本拠としてからは戦国大名の城下町として発展,文禄・慶長の役には清水山城が築かれた。近世には対馬藩の藩庁所在地で,1659年(万治2)の大火後,新規に町割りがされ,家臣団の城下町集住の強制に伴い武家屋敷も整備され,近世城下町の形態を整えた。近世対馬の政治,経済,文化の中心として,また朝鮮通信使など外交の舞台として機能し,その遺跡,遺物も多い。…

【ロシア軍艦対馬占領事件】より

…1861年(文久1)2月ロシア軍艦ポサドニック号が船体修理を理由に対馬浅茅(あそう)湾の尾崎に停泊,付近を測量し,3月芋崎に永住施設を建設して居座った。対馬藩の抗議に対し艦長ビリリョフは芋崎付近の租借権を強請,藩民との紛争も絶えなかった。幕府は5月外国奉行小栗忠順(ただまさ)を派遣したが効果なく,6月藩は幕府に移封願を提出した。…

※「対馬藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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