西成郡
にしなりぐん
「和名抄」高山寺本は「ニシナリ」、東急本国郡部は「迩之奈里」と訓じ、長源(溝か)・安良・伏見・槻本・宅美・讃楊・雄惟・三野・津守・郡家・駅家・余戸(最後の三郷は東急本にのみ記載)の一二郷をあげる。式内社は一二郷からなる上郡であるにもかかわらず、名神大社で宮中の坐摩巫の祀る神と共通する坐摩神社(現東区。古訓は「いかすり」)があるだけで、このことは当郡の歴史的個性を考えるうえでの問題を含むものである。当郡は上町台地とその北方の天満砂堆と西方の難波砂堆および沖積平野部からなる地域であるが、西方部は淀川などの諸河川の自然的な沖積作用のほかに、近世の新田開発や明治以降の埋立事業が活発に行われた地形変化のはげしい地域である。こうした地形変化のほか、当郡域は古代以来、畿内的・全国的な港湾都市として政治的にも経済的にも重要な位置を占めたため、歴史的にも大きな変動を経過した地域でもある。古代の難波宮(現東区)・難波京の造営、戦国期の石山本願寺(跡地は現東区)の建立と寺内町の形成、豊臣秀吉の大坂城築城と城下町の建設、元和以降の特別行政区域としての大坂三郷の設定などはその主要なものであり、近代以降は大阪市の主要部分を占めることになる。なお近世では、北は川辺郡(現兵庫県)・豊島郡・島下郡、東は河内国茨田郡、摂津国東成郡・大坂三郷、南は住吉郡、西は大阪湾。現在では、郡域は大阪市の北部と中央西部にあたる。
前述のような歴史過程のなかで郡界もしばしば変化し、庄園の設定や近世の町づくりによって古代の郷名は地名としてほとんど失われた。中世には古代の郷名に替わって多くの庄園名が登場、近世の大坂三郷内ではそれぞれの由来をもつ町割と町名の出現をみることになる。本項では、以上のような当郡域の特殊性にかんがみ、古代を中心に述べ、近世は村方地域の動向(郡高・村数など)に言及するにとどめた。なお、承徳二年(一〇九八)・応永二四年(一四一七)の年紀を記す難波の古地図があり、「日本地理志料」をはじめとして従来から各種の郷域比定がこの地図を基礎にして行われてきたが、いずれも偽作物であり、郷域比定の根拠となしがたいことを、とくに付記しておきたい。
〔初見・表記〕
郡名の初見は天平一九年(七四七)の法隆寺伽藍縁起并流記資財帳の諸国の庄をあげたなかに「西成郡一処」とみえるものであるが、「続日本紀」天平六年三月一六日条に、聖武天皇の難波行幸に関連して「供
奉難波宮
東西二郡」とある「西郡」も当郡のことである。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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