出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
戦国・近世初期において寺院の境内として成立した都市をいう。寺院がうける特権を利用して都市を建設したもので,真宗寺院に多く,日蓮宗にもみられた。これらは戦国動乱の時代にふさわしく,濠,土居などで防御された囲郭都市であり,内部は寺院を中心に整然たる都市計画がなされている場合が多い。寺内町の早い例は,蓮如による越前吉崎御坊で,山上に多屋(田屋,他屋)が立ち並んだが,寺内町としての形態はまだ不十分であった。1479年(文明11),80年の山城の山科本願寺では寺内町が成立し,8町が〈在家又洛中に異ならず〉(《二水記》)という状況であった。ついで大坂の石山本願寺には当初寺内6町のち10町を超える町が発展した。そして,石山の周辺である摂津,河内,和泉,大和には寺内町が急速に成立し,富田林(とんだばやし),大ヶ塚(だいがつか)(大阪府南河内郡河南町),八尾,久宝寺(きゆうほうじ)(大阪府八尾市),招提(枚方市),富田(とんだ)(高槻市),貝塚,今井などの寺内町ができた。また東海地方では尾張・美濃境の富田(とみだ)(愛知県一宮市,旧尾西市)などにできたが,三河では真宗寺院はあったものの寺内町の発展はなかった。北陸地方では金沢,城端,井波,古国府(富山県高岡市)の真宗寺院があり,16世紀末には町場化がすすんだ。以上は真宗系寺内町であるが,これと対立した日蓮宗では摂津尼崎に本興寺,長遠寺寺内町がみられる。寺内町の建設は寺院側が主導権をもったもの,有力土豪の主導によるもの,惣中の主導によるもの,と分かれている。寺院が拠点をおさえ勢力を拡大しようとしたこともあるが,一方で寺院の庇護下に都市建設を行い,自治都市を建設しようとした。〈寺内を構え,家数これを立て,福貴せしむべき造意〉(《証如日記》)とあるから,福貴を得ようとしたことが目的であった。戦乱の中で生活の拠点を築こうとしたのである。そのため寺内町といっても他宗派を含み,真宗系では日蓮宗はないものの,浄土宗信者は存在した。のちの京六条本願寺寺内町では家主のみ真宗信者に限り,借家は宗旨を自由とした。
寺内町の建設には,領主側より土地を買得・寄進をうけるか借地するかしなければならなかった。また在地にも一定の銭を出して権利を得ている。建設された都市では,石山本願寺を例にとると,寺内の行政・警察・裁判権をもったし,細川氏より諸公事免許,徳政免許の特権を得ていた。1560年(永禄3)富田林の〈条々〉では諸公事・座公事免許,徳政免除,国質所質幷ニ付沙汰の禁とともに寺中は大坂並みというものであり,真宗寺内町は石山本願寺と同様の権利をもった。また織田信長の認めた日蓮宗長遠寺の〈条々〉には,陣執・兵具を帯びての出入りの禁や敵味方を問わず出入りの自由,つまり戦乱の中での中立地帯としての保証を行っている。寺内町の建設は織田政権期までであり,豊臣政権は寺内町の都市特権を否定する。もちろん本願寺所在地の大坂天満,京六条には寺内町があり,ほかにも寺内町は存続したが,内容は異なっている。
執筆者:脇田 修
社寺の門前に,なお境内の外部へ向かって参詣者を対象にして店舗や旅宿が発達して形成された門前町とは異なり,寺内町とは,基本的には寺院を中核にして僧侶や門徒衆の居所を計画的な方格状街区に配し,その周囲を濠と土塁で囲繞し,防御的配慮の形態が施行されている都市的集落である。
寺内町の時代相と形態を粗笨的に分類すると,3形態に分かれる。まず蓮如が布教の拠点とした時期の寺内町があげられる。この当初は,旧仏教勢力や戦国大名の抑圧に対応するために,寺院周辺に僧侶や多屋衆と称せられる門徒衆を居住させた。街区は計画的な方格状の町割りであり,寺院を中心にした町域の外周には堤土手,塁濠でもって囲周している。あたかも中世の居館集落にも類似しており,中核を占める領主の城館の代りに寺院を配置した形態を呈する。その典型的事例である吉崎御坊は,比高約30mの台地状の末端部の御山(おやま)と呼称される要害の地に建立されている。御山には馬場大道が建設され,南・北両大門や門内多屋,および土蔵が設置されていた。南大門の南に多屋衆の居住区が配置され,門徒の宿泊所や臨戦的屯所としての機能を果たした。この吉崎御坊は,山科本願寺や石山本願寺を中心とする寺内町の原形となったと考えられる。これらの平面形態の規模はだいたい方8町である。ところが16世紀に入ると,寺院を中核とする周辺には僧侶や門徒衆のほかに商工業者の居住が増加し,しだいに商工業的機能を備えた都市的集落となって発展するようになった。この時代より,流通経済の発達した畿内を中心に,商工業者あるいは有力農民が中核となって真宗寺院を誘致し,寺内町を建設した。この代表事例が貝塚や富田林などである。前者の外形的規模はおよそ6町×5町であり,後者は方4町を形成している。このような寺内町の活発な経済活動に刺激されて,領主が居館集落の繁栄を促進するために,真宗寺院をその集落の周辺に招致し寺内町を建設した事例もある。この代表例が今井,久宝寺,城端などで,そのうち今井の平面形態の規模はだいたい方4町を形成する。
その後の寺内町は,町域内の中核に占める真宗寺院の占有比率は低くなり,周辺に居住する町民も真宗門徒に限定せず,他宗派の信者も招誘した。この居住区の街区は整然とした方格状的プランを維持しているが,周辺の塁濠は小規模となり,防御的要素は稀薄となった。寺内町は城下町の原形となっている点が少なくなく,近世になると,宗教的都市というよりは商業的在町として継承されたり,また城下町の寺町(てらまち)街区となって吸収されている面も多い。しかし寺内町は僧侶や農民,および手工業者が中心となっており,城下町にみられるような身分的職業的規制や統制,および地域制はそれほど顕著ではなかった。
執筆者:山田 安彦
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戦国時代の前半につくられた人為的な町。浄土真宗の寺院を中心とし、その周りに土塁や堀などの防衛施設が整えられ、さらにその外周に町屋的なものが集まっていたもので、近世城下町の原初的なものとされる。寺院を中心とした防衛都市であるので門前町と区別される。その始まりは越前(えちぜん)(福井県)の吉崎(よしざき)(あわら市)で、初期の寺院は丘陵北端の要害の地(国指定史跡―吉崎御坊(ごぼう)跡)が選ばれ、その麓(ふもと)の低地には「他屋(たや)」という長屋が設けられ、鍛冶(かじ)、大工などの職人の町屋もできていた。寺内町の造営は、寺院の主導によるもの、戦国土豪の城地寄進によるもの、門徒集団によるものなどに分けられる。人文地理的位置は水陸交通の要地にあたっていて物資流通の拠点たりうる可能性のある地区に選ばれているのも特色である。戦国時代には一向一揆(いっこういっき)の拠点となっていたが、その衰微に伴って衰え、近世に入ると信仰中心の門前町に変容した。越中(えっちゅう)(富山県)の井波(いなみ)、城端(じょうはな)、古国府(ふるこう)(高岡市伏木(ふしき))、山城(やましろ)(京都府)の山科(やましな)、摂津(せっつ)(大阪府)の石山(旧大坂城)、枚方(ひらかた)、和泉(いずみ)(大阪府)の貝塚、富田林(とんだばやし)、大和(やまと)(奈良県)の高田などがその好例である。
[浅香幸雄]
「じないちょう」とも。戦国期,畿内・北陸・東海地域で真宗寺院を中核に周囲を堀や土石塁で囲って自治的に営まれたアジール的性格をもつ都市的集落。1471年(文明3)蓮如(れんにょ)が開いた越前国吉崎御坊を先駆として,79年町衆が居住する8町を包括した山城国の山科(やましな)本願寺が最初。次の大坂の石山本願寺は,寺内にはじめ6,のちには10の町があり,惣町が自治的に運営した。ほかに摂津国富田(とんだ),河内国久宝寺(きゅうほうじ),大和国今井,河内国富田林(とんだばやし),和泉国貝塚,尾張国富田(とみだ),美濃国円徳寺,伊勢国顕証寺などがある。この時期真宗と対立した法華宗の場合も,摂津国尼崎の本興寺・長遠寺が寺内町を形成した。織豊政権の成立とともに解体した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…この期の一向一揆は,法主の命による軍事動員(具足懸(ぐそくかけ))の場合が多く,これは,本願寺教団自体が上部権力と結びつきながら一つの政治的・軍事的勢力として確立してきたことと,法主を頂点とする集権的な教団組織が形成されてきたことを示す。 またこの時期には,畿内各地に本願寺の御坊・寺院を中心に寺内町が形成される。16世紀中葉以前に,名塩,石山,富田(以上摂津),招提,枚方,出口,久宝寺(以上河内),貝塚(和泉),今井,下市,飯貝(以上大和),山科(山城)などが設立され,少しおくれて59年(永禄2)に富田林(河内)が設立される。…
…1546年(天文15)本願寺は,ここに阿弥陀如来をまつる金沢御堂(みどう)を建立,金沢御坊(ごぼう)が成立した。御坊内には近江町,堤町,西町,後町(うしろちよう)の,いわゆる寺内町を立てた。80年(天正8)金沢御坊をおとした佐久間盛政は,ここをそのまま城下町としたが,83年前田利家が入城すると,金沢を尾山と改め,近世的城下町の建設を始めた。…
…手工業生産の発達にうながされ,地方都市の発展も著しい。河内では一向宗の教線の伸張に伴って出口,枚方,招提(しよだい),久宝寺,富田林,長曾根,金田などの寺内町が形成された。久宝寺は近世の絵図から推定すると周囲に二重の濠と土居をめぐらし,6ヵ所の出入口には木戸門と番所が設けられていた。…
…楽市令は大別して次の2種に分けられる。ひとつは,15,16世紀に新しく登場した地方市場で,寺内町(じないちよう)に代表されるような,すでに,楽市場として存在していた市場に,その楽市の機能を保証した,いわば保証型楽市令である。この型に属する楽市令としては,織田信長の永禄10年(1567)美濃加納あて楽市令,元亀3年(1572)近江金森あて楽市令,後北条氏の天正13年(1585)相模荻野あて楽市令などがある。…
※「寺内町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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