西有家町(読み)にしありえちよう

日本歴史地名大系 「西有家町」の解説

西有家町
にしありえちよう

面積:二八・八〇平方キロ

島原半島の南部に位置し、東部は有家町、西部は北有馬きたありま町、北から北西にかけて小浜おばま町に接する。町域の北部に高岩たかいわ(八八一メートル)があり、これより南部に向かって緩やかな傾斜面が続く。有家町境を流れる有家川や須川すかわ川・清水しみず川などが有明海(島原湾)に注ぎ、海岸部に平野が形成されている。海岸部を島原鉄道が通り、それにほぼ並行して国道二五一号が通る。北部は雲仙天草うんぜんあまくさ国立公園。

北東部の慈恩寺の岸田じおんじのきしだ海岸段丘当田あただなどから縄文時代後期の遺物、南部の風呂川ふろがわ遺跡では同晩期の遺物が出土している。弥生時代の遺跡は里坊名尾崎さとぼうみようおさき須川引無田ひきむたなどから中期・後期の土器が発見され、古墳には塩塚しおつか古墳がある。律令制下では高来たかく郡に属し、町域に「和名抄」に記される高来郡新居にいい郷が置かれていたとする説がある。中世には高来東たかくとう郷のうちで、鎌倉期に有馬朝澄・有馬連澄らの勢力が及んでいたと想定される。南北朝期に島原半島の諸家ははじめ南朝方として活躍したようであるが、応安六年(一三七三)九州探題の今川了俊の軍勢が伊佐早いさはやに次いで有家城(里坊名)を襲って有馬澄世を討っている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報