有家町村(読み)ありえまちむら

日本歴史地名大系 「有家町村」の解説

有家町村
ありえまちむら

[現在地名]有家町小川こがわ中須川なかすかわ、西有家町見岳名みたけみよう慈恩寺名じおんじみよう

現有家町域の南部に位置し、南は海に臨む。西部を有家川が流れる。中須川のつつみにある明応二年(一四九三)銘の読誦塔に刻まれる馬場紀伊入道は有馬四天王の一人であったという。中須川西部の前田まえだの寺屋敷はイエズス会のセミナリオ跡に比定され(標柱が立つ)、文禄四年(一五九五)から慶長二年(一五九七)まで開設され、七〇余名がそこで学び、慶長元年・同二年には銅版画「聖家族」「セビリヤの聖母」が印刷されている(大浦天主堂に保存)。同所に箱形で丸形花十字を陽刻するものと、庵形干十字を陰刻した二基のキリシタン墓碑(県指定史跡)がある。小川の榎田えのきだには入母屋式のキリシタン墓碑(県指定史跡)がある。島原の乱後には小川の熊野神社などが復興されている。

江戸時代は島原藩領の南目筋に属する有家村のうちで、正保二年(一六四五)の高来郡内高力氏領分図に有家内として記される慈恩寺村三〇六石余・見嶽みたけ村三三九石余・山川やまかわ村二二八石余・久保くぼ村二四七石余・法堂ほうどう村二三五石余が当村域と考えられる。承応元年(一六五二)有家町村・有田ありた村・隈田くまた村の三村に分れ、中通なかどおり(または中)とも称された町村まちむらは慈恩寺名・見岳名・山川名・久保名・法道名にわたっていたという(「有田村庄屋石橋家記録」有家町郷土誌)四面しめん(現温泉神社)門前町として形成された町場で、寛文五年(一六六五)有家町村を公称している。


有家町村
ありえまちむら

[現在地名]西有家町見岳名みたけみよう慈恩寺名じおんじみよう、有家町小川こがわ中須川なかすかわ

隈田くまた村の北東に位置する。江戸時代は現有家町小川・中須川などを含めて有家町村として一村を形成していた。明治五年(一八七二)有田村・隈田村と合併して有家村となるが、同一二年有家村が東有家村・西有家村に分立した際、当村内の見岳名・慈恩寺名は西有家村となった。見岳名の大菩薩だいぼさつ神社では宝篋印塔(高さ約二メートル)を神体として祀っているが、見岳の地内には大谷五輪塔群やキリシタン墓碑二一基がある。慈恩寺名には中世の菊池氏の有家城の跡があり、八幡神社や岸田きしだにキリシタン墓碑が残る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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