朝日日本歴史人物事典 「西田直養」の解説
西田直養
生年:寛政5.7.21(1793.8.27)
江戸後期の国学者。通称庄三郎,字浩然,号筱舎。豊前小倉藩(福岡県)藩士高橋元義の4男,文化5(1808)年,同藩士西田直享の養子となる。15,6歳のころから儒学を石川彦岳に学び,21歳で君側勤仕となり江戸出府の際,大田錦城に入門,また和歌を秋山光彪に学んだ。30歳のころから本格的に国学を学んだというが,漢学の素養もあって特に論語を愛読した。国学者との交遊は極めて広く,平田篤胤,屋代弘賢,塙保己一,伴信友,萩原広道らと相知り,また歌においては高い評価を得ていた。書画,雅楽,酒茶など多芸多趣味で,奇談新話を好んだという。藩士としては36歳のとき勘定奉行となり,元締役,町奉行,寺社奉行取計,近習番頭を歴任,支藩小倉新田藩篠崎侯の傅となり,京都大坂の留守居役を勤めた。藩の佐幕体制を嘆き,元治1(1864)年,長州藩が英米仏蘭の連合艦隊によって下関を攻撃されたとき,自藩が傍観していたことに憤激し,絶食をもって死に至った。維新後,東紫神社に祭られた。著作に『金石年表』『神璽考』『筱舎漫筆』などがある。<参考文献>『小倉市誌』下
(飯倉洋一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報