朝日日本歴史人物事典 「大田錦城」の解説
大田錦城
生年:明和2(1765)
江戸中・後期の儒学者,詩人。加賀大聖寺藩医樫田玄覚の7男。名は元貞。字公幹。通称才佐。幼いころは家兄・後の加賀藩儒樫田北岸と父の素読を受け,10歳代の後半までには古方医を修めた。天明4(1784)年,山本北山の奚疑塾に入るべく出府。北山と仲違いして後は,文化8(1811)年ごろ,三河吉田藩儒に仕官するまで,ほとんど市井において儒者文人の声名を挙げた。時流のアンチ古学派の経学と詩文を展開。経学の自説をまとめた『九経談』(4冊,1804)の今日伝わる板本類には読者の批評が多く書き込まれており,当時の儒学ベストセラーがいかに読まれたかがわかる。和文随筆『梧窓漫筆』(全6冊,前編1813)とともに,幕末期を通して数回の後印を重ねる。寛政改革の際には異端視された上,賭博など素行の数々を指弾されており(『よしの冊子』),悪評判が絶えなかった。化政期の学者評判記に現れるその姿には,幕末の職業文人の一原型を見いだすことができる。文政5(1822)年に故国の金沢藩に招かれたが,ほどなく亡くなった。<参考文献>太田才次郎『旧聞小録』,井上善雄著『大田錦城伝考』上
(ロバート・キャンベル)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報