西高津村(読み)にしこうづむら

日本歴史地名大系 「西高津村」の解説

西高津村
にしこうづむら

[現在地名]南区高津こうづ二丁目・千日前せんにちまえ二丁目など、天王寺区生玉いくたま町・生玉前いくたままえ町など

西成にしなり郡に属し、柏原かしはら町・田島たしま町・瓦土取場かわらつちとりばの南、東成郡北平野きたひらの町の西にあり、飛地として高津五右衛門こうづごえもん町裏の一ヵ所と日本橋につぽんばし三丁目西裏の髭剃ひげそりが付属した。東高津村とともに中世郡戸こおと庄の地。「太平記」巻六(楠出張天王寺事付隅田高橋并宇都宮事)に「天王寺へ押寄せ、古宇都こうつの在家に火を懸け」とあり、元弘二年(一三三二)楠木氏と宇都宮氏との合戦では戦渦に巻込まれた。本願寺証如の「私心記」天文三年(一五三四)三月一〇日条に「又ヤガテ天王寺へ回候、コウヅ渡辺焼候」、同四年六月一一日条に「コウヅ・渡辺・ツ村等焼テ」などとみえ、細川晴元と石山いしやま本願寺(跡地は現東区)の合戦でも罹災しているほか、元亀元年(一五七〇)八月の織田信長対三好氏の野田・福島合戦でも信長の陣所となった(足利季世記ほか)

西高津村
にしこうづむら

天王寺村の北にある西成にしなり郡の村で、南半(現生玉町など)は現天王寺区、北半は現南区に属する。村地は生国魂いくくにたま神社や生玉筋中寺いくたますじなかてら町などの寺院街区の間に散在した。明治六年(一八七三)生国魂神社および寺院街区のうち、西寺にしてら町の源聖寺げんしようじ坂以北、生玉筋中寺町北半・谷町筋八丁目寺たにまちすじはつちようめてら(現南区)生玉寺いくたまてら町の齢延れいえん寺が当村に編入された(南区の→西高津村

西高津村
にしたかつむら

[現在地名]上越市高津たかつ

稲村いなむら古新田の南に位置し、ひるこ街道が通る。天和三年郷帳によると高一三一石八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報