要法寺町(読み)ようぼうじまち

日本歴史地名大系 「要法寺町」の解説

要法寺町
ようぼうじまち

[現在地名]高知市さかい

掛川かけがわ町の北にあり、西は郭中かちゆうとの境の外堀、東は南北筋の横町八百屋やおや町を挟んで朝倉あさくら町・浦戸うらど町。当地は戦国時代、国沢将監の居城のあったところといわれ、町名は城下町建設時に山内氏の菩提寺日蓮宗要法寺を置いたことにちなむ。

要法寺は寺領一三〇石、境内は八反二〇代あったといい、慶安二年(一六四九)五月、要法寺の南にあった桂昌けいしよう寺との間に東西の通りを開き、東の朝倉町と西の外堀沿いの通りを結んだが、のちに町場化したのでこの名がついたという(高知市沿革略志)

要法寺町
ようほうじちよう

下京区醒ヶ井通綾小路下ル

南北に通るさめ通を挟む両側町。

平安京の条坊では左京五条二坊四保一〇町の地。

中昔京師地図によると、当町近辺に「要法寺」があった。天文法華の乱により難を堺(現大阪府堺市)に避けていた法華二一ヵ本山が、天文一一年(一五四二)に洛内環住の勅許を得、うち上行じようぎよう院と住本じゆうほん寺が合併して新たに要法寺として再建されたものである(現在は左京区)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報