要路城跡
ようろじようあと
江川西岸、光宅寺谷の奥の標高約三二〇メートルにある山城跡。用路城とも記され、丁城・養老城・都賀西城とも称されたという。築城年代は未詳だが、一説に南北朝期に佐波氏が築城したともいわれる。明確に史料に登場するのは弘治二年(一五五六)と思われる三月二〇日の毛利元就書状(閥閲録)で、「都賀、用路計ニてハ、佐波江伝難成候条、山南一城取付、佐波伝ニ仕度由候」とある。当時、石見進出を本格化させていた毛利氏は用路城を佐波郷(現邑智町)方面への中継点の一つとしていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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