佐波郷(読み)さわごう

日本歴史地名大系 「佐波郷」の解説

佐波郷
さわごう

邑智町域に比定される南北朝時代からみえる郷名。郷域は東は邑智町東部の充満いずみ山、酒谷さけだに九日市ここのかいちから久保くぼ粕淵かすぶち地内の小原おばら高畑たかはた青杉あおすぎじよう山を含み、西は江川に沿って奥山おくやま吾郷あごうおよび乙原おんばら地内のたけ方面に広がる。貞応二年(一二二三)三月日の石見国惣田数注文にみえる邑智郡の公領として「下出羽佐波同いなよし 十一丁七反百二十卜」「佐波同よしなか 十一丁七反百廿歩」とみえるが、「佐波」の注記はともに後代の加筆と考えられ、注文成立時に中世郷の佐波郷が成立していたかどうかは不明。正平九年(一三五四)一〇月一九日の佐波実連譲状(長門中川四郎氏所蔵文書)によると、実連(賢義)が庶子の善次郎四郎常連に「佐波郷の内くほ・お原両村」を譲与したが、両村の東の境のうちに「しふ谷のみなと」とみえることから、久保村・小原村付近にある江川の屈曲点辺りに湊があったものと推測される。佐波氏(三善氏)の邑智郡入部を「島根県史」は応安(一三六八―七五)頃としているが、現在のところ正平九年をあまりさかのぼらない時期ではないかと考えられる。

佐波郷の東半にあたる沢谷さわだに川沿いでは、早くから所領が南北に分割されている。永和三年(一三七七)三月二三日賢義は庶子の常連に上は酒谷川、下は「くねちたに」(九日谷か)を限り、その南側の領地を分割譲与している(「佐波賢義譲状」閥閲録)。この地域は常連の流れを汲む出雲赤穴あかな(現赤来町)の赤穴氏(三善氏)によって幾度かの得失を経ながら継承されており、大永年間(一五二一―二八)頃まで赤穴氏の譲状などにみられる(大永七年八月二四日「三善光清譲状」同書など)。一方、明証は欠くが、永和三年以降沢谷川北側の領地は佐波惣領家が相伝したものと推測される。

佐波郷
さわごう

和名抄所載の郷。諸本とも佐波と記すが、ともに訓を欠く。安濃あの郡に同名の郷があるが、同一のものであるかは不明。のち安濃郡佐波郷は当郷に組込まれたとみられる。現邑智町吾郷あごう粕淵かすぶち浜原はまはらおよび旧沢谷さわだに地区(大日本地名辞書)、または現邑智町酒谷さけだに九日市ここのかいち石原いしはら千原ちはら片山かたやま熊見くまみ上川戸かみかわど・浜原・久保くぼ粕淵湯抱ゆがかい志君しぎみ奥山おくやま・吾郷・野井のい滝原たきばら簗瀬やなぜ乙原おんばら明塚あかつか信喜しぎ高山たかやまに比定される(大日本地名辞書)

佐波郷
さばごう

「和名抄」高山寺本に「佐波」と記し、訓を欠く。刊本(慶安元年)に「サハ」と仮名を付す。佐波郷は「沙麼県」(日本書紀)にあたる。「沙麼県」の範囲は瀬戸内海航路の要津である佐波津(豊後国風土記)をはじめ西佐波令にしさばりようおよび東佐波令の一部を含む地域と比定されている。現防府ほうふ市街地付近にある古墳の被葬者には沙麼県主一族も相当数いたことが考えられる。

佐波郷
さわごう

「和名抄」所載の郷。諸本とも佐波と記すが、ともに訓を欠く。比定地は未詳で、邑智おおち郡に同名の郷があるが、同一のものであるかどうかは不明。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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