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毛利元就 もうり もとなり

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美術人名辞典の解説

毛利元就

室町後期の武将。郡山城主。安芸生。弘元の次男。幼名は松寿丸、少輔次郎と号する。一族の結束を強調し、隆元・元春・隆景の三子に残した教訓状は、のちに「三矢の訓」として世に喧伝された。連歌や和歌も能くした。元亀2年(1571)歿、75才。

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デジタル大辞泉の解説

もうり‐もとなり【毛利元就】

[1497~1571]戦国時代の武将。陶晴賢(すえはるかた)大内義長尼子義久らを滅ぼし、山陰・山陽10か国を領有する戦国大名となった。隆元・元春隆景の三子に与えた一族団結を説く教訓は、三本の矢の教えとして有名。

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百科事典マイペディアの解説

毛利元就【もうりもとなり】

戦国時代の武将。弘元の次男。庶子(しょし)であったが,兄興元,その子幸松丸の没後,1523年毛利氏家督を継ぐ。初め尼子晴久,のち大内義隆に属した。1529年,安芸石見(いわみ)国人(こくじん)領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼしその位置を継承,1541年安芸守護家の武田氏を滅亡させて広島湾に進出した。
→関連項目月山城吉川氏小早川氏大寧寺豊栄神社益田氏毛利氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

毛利元就 もうり-もとなり

1497-1571 戦国時代の武将。
明応6年3月14日生まれ。毛利弘元の次男。大永(たいえい)3年(1523)家督をつぎ,安芸(あき)(広島県)郡山城主となる。大内義隆に属し,義隆をたおした陶晴賢(すえ-はるかた)を天文(てんぶん)24年(1555)厳島(いつくしま)の戦いで撃破。ついで大内義長,尼子(あまこ)氏を討ち,中国全域を支配する戦国大名となった。隆元ら3人の子にあてた教訓状が有名。元亀(げんき)2年6月14日死去。75歳。
【格言など】智,万人に勝(すぐ)れ,天下の治乱盛衰に心を用うる者は,世に真の友は一人もあるべからず

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朝日日本歴史人物事典の解説

毛利元就

没年:元亀2.6.14(1571.7.6)
生年:明応6.3.14(1497.4.16)
中国地方の戦国大名。室町幕府御家人毛利弘元の次男として安芸郡山城(広島県吉田町)に生まれる。母は福原広俊の娘。幼名松寿丸。次郎。官は治部少輔,右馬頭,陸奥守。幼少時に父母を失い,兄興元没後の家督は甥幸松丸に譲られるなど不遇であったが,大永3(1523)年幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぐ。この段階の毛利氏は尼子氏の被官で,吉田盆地を拠点とする一国人に過ぎなかったが,翌々年大内義興の配下に入り,近隣の群小土豪をあわせて安芸中央部をほぼ統一した。天文6(1537)年,長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す。同9年9月,尼子晴久に郡山を包囲されたとき,元就は城下の老幼すべて籠城させて5カ月の重囲に耐え,翌1月には尼子軍を敗走させた。同11,12年義隆の尼子攻めに従軍。15年,隆元に家督を譲って隠居するもその後見として実権は放さず,芸備両国の経営に専念,義隆から両国を預けられて事実上大名化する。同19年3男隆景を小早川家の入婿とし,次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石とし,家老井上一族を滅ぼすなど家中の専制体制を確立した。 翌天文20年8月,義隆が陶晴賢に滅ぼされると晴賢に従ったが,同22年石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して翌5月晴賢と断交,弘治1(1555)年陶氏2万の大軍を厳島の海峡におびき寄せ,小早川,村上水軍の援を得てこれを全滅させた(厳島の戦)。翌々年には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ,版図は防長芸石備5カ国に拡大。幕府は守護職を与えて懐柔,元就と尼子との講和を図るが,元就は正親町天皇即位の費用を献じて朝廷に接近し,尼子領国を蚕食した。一方で大友氏と和を結んで防長の背後を安全にし,大挙して出雲富田城に尼子氏を攻撃。永禄9(1566)年11月に富田を陥れ,その領国は中国地方全域におよんだ。以後は,豊後大友氏を主たる敵として北九州経営を目指すが果たさず,75歳で病死。元就の真骨頂は戦術よりも謀略と外交戦にあったが,幼少時の辛苦から学んだ忍従の人生訓が盛られた家訓は,組織の維持に資するものとして今なお重宝される。

(今谷明)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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防府市歴史用語集の解説

毛利元就

 戦国時代の武将で、安芸[あき]国の吉田を本拠地とします。一時、大内[おおうち]氏に属していましたが、陶晴賢[すえはるかた]が大内氏の実権をにぎると、大内氏をほろぼしました。また、尼子[あまこ]氏もほろぼし、勢力を広げていきました。

出典|ほうふWeb歴史館
Copyright 2002,Hofu Virtual Site Museum,Japan
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デジタル大辞泉プラスの解説

毛利元就

山岡荘八の歴史小説。1964年刊行。

毛利元就

1997年放映のNHK大河ドラマ。全50回。原作は、永井路子の小説『山霧』。戦国大名、毛利元就の生涯を描く。脚本:内舘牧子。音楽:渡辺俊幸。出演:中村橋之助、富田靖子、緒形拳ほか。

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世界大百科事典 第2版の解説

もうりもとなり【毛利元就】

1497‐1571(明応6‐元亀2)
戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ,郡山城主となる。25年以降出雲の尼子氏と絶って周防大内氏に属し,40年(天文9)には尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されたが,籠城戦の末に翌年これを撃退した。引き続き従軍した大内義隆の出雲遠征では敗退したが,大内氏の援助のもとに芸備両国の経略を進めた。

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大辞林 第三版の解説

もうりもとなり【毛利元就】

1497~1571) 戦国時代の武将。大内義隆が家臣陶晴賢すえはるかたに倒されたのち、陶氏を討って周防・長門を支配下に収め、出雲の尼子氏を倒して中国地方一〇か国を制覇。一族の結束を固めるための三本の矢の教訓が有名。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

毛利元就
もうりもとなり

[生]明応6(1497).3.14. 安芸
[没]元亀2(1571).6.14. 安芸
戦国時代の武将。弘元の子。幼名,松寿丸。少輔次郎と称した。大永3 (1523) 年家督を継ぎ郡山城に拠った。初め尼子晴久に仕えたが,天文3 (1534) 年大内義隆に属して尼子氏に対抗。義隆が家臣陶晴賢に殺されると,その弔い合戦と称して弘治1 (1555) 年厳島の戦いで晴賢を討ち,その余党も撃滅して長門,周防をその勢力下に収め,さらに永禄9 (1566) 年までに尼子氏ならびにその余党を討って山陰,山陽 10ヵ国と九州,四国の一部をも領有する一大勢力を形成した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

毛利元就
もうりもとなり
(1497―1571)

戦国時代の武将。安芸(あき)国高田(たかた)郡吉田郡山(よしだこおりやま)城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。のちに父が兄興元(おきもと)に郡山城を譲って多治比猿掛(たじひさるがけ)城(安芸高田市吉田町)に隠退した際、それに従った。興元とその子幸松丸(こうまつまる)が相次いで早世したため、1523年(大永3)重臣に推されて家督を継ぎ、郡山城に入った。大内・尼子(あまご)両勢力の対立する状況のもとで、安芸における大内方の中心として活動し、40年(天文9)には尼子晴久(はるひさ)の率いる大軍に城を囲まれたが、よくこれを撃退した。以後、内にあっては、50年の重臣井上氏一族誅伐(ちゅうばつ)を契機に家中支配権を確立し、外に向かっては、51年に陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆(よしたか)を弑(しい)したのに乗じ安芸・備後(びんご)に支配を広げ、続いて55年(弘治1)の厳島(いつくしま)の戦いで陶氏を滅ぼし周防(すおう)・長門(ながと)を手中に収めた。さらに66年(永禄9)には出雲(いずも)富田(とだ)城(島根県安来(やすぎ)市)の尼子義久(よしひさ)を降伏させ、68年には大友氏攻撃の軍をおこすなど、諸方面に支配の手を伸ばし、その領域は西は長門から東は備中(びっちゅう)・因幡(いなば)まで10か国に及んだという。死後、嫡孫輝元(てるもと)がその跡を継いだ。
 元就がもっとも腐心したのは、広大な領国の統治策である。毛利氏が国人(こくじん)領主出身であり、その版図が急激に拡大したものであったため、そこには支配の統一的原則がなかったからである。とりわけ、もともと毛利氏と対等の関係にあった国衆(くにしゅう)とよばれる有力家臣の存在は、その困難をいっそう大きくした。そこで元就は、征服地の検地などを通じた知行(ちぎょう)制の整備、在地小領主層の家臣への取り立てによる軍事力基盤・在地支配体制の強化、官僚制機構を通じた行政支配の充実などを図った。なかでも特徴的なのは、子供の多いことを利した、養子・婚姻による有力家臣との縁組政策である。その中核が、吉川(きっかわ)家の養子となった二男元春(もとはる)、小早川(こばやかわ)家の養子となった三男隆景(たかかげ)の「毛利両川(りょうせん)」である。彼らは有力家臣家の当主として、また毛利氏一族として、本宗家をよく支えた。
 元就は、その経歴ゆえか、性格が非常に細心・慎重で、子供たちにも盛んに訓戒を与えていた。配慮は微細に及び、親・兄が酒のために早世したことから自身は下戸となり、孫の輝元にも飲酒がすぎぬよう戒めた書状が残っているほどである。とりわけ有名なのは、養家に目を向けがちな元春・隆景に、毛利家をおろそかにしてはならぬとして嫡子隆元(たかもと)への協力を諭した書状で、これが、矢は1本では簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくいことを示して、三兄弟の結束を説いたという、かの3本の矢の逸話の源となったとも考えられる。[池 享]
『三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝 上』(1944・六盟館) ▽河合正治著『安芸毛利一族』(1984・新人物往来社) ▽河合正治編『毛利元就のすべて』(1996・新人物往来社)』

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世界大百科事典内の毛利元就の言及

【安芸国】より

…翌年義隆の出雲遠征失敗後も両陣営の対立は続くが,尼子の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。51年陶隆房が義隆打倒の際佐西郡を占領すると,毛利元就は佐東郡の全域を掌中におさめ熊谷・天野をはじめ多くの国衆を従えた。元就は54年5月陶と断交し金山・桜尾等の諸城を奪い厳島を掌中におさめ,翌年厳島を占拠した陶軍を滅ぼし,安芸における覇権を確立した。…

【厳島の戦】より

…1555年(弘治1)毛利元就が,安芸国厳島に進駐した陶晴賢(すえはるかた)を討った戦い。これ以後毛利氏の中国地方制覇の道がひらかれる。…

【吉川氏】より

…1508年(永正5)の大内義興上洛の際には国経も随従し,船岡山合戦では元経とともに活躍した。15,17年の武田元繁の山県郡侵入に際して,元経は毛利元就らと協力してこれを破った。40,41年の尼子晴久の安芸侵入の際に興経は尼子方として活躍しており,惨敗した尼子軍は興経の援護をうけて潰走した。…

【陶晴賢】より

…1539年(天文8)父の跡を継いで大内義隆の重臣となり,周防守護代。翌年尼子晴久が毛利元就の安芸郡山城を囲むと,大内軍の総大将として救援に赴き,尼子軍を撃退した。さらに出雲遠征を主張,42年義隆の出陣を促して尼子氏の富田城を囲んだが,翌年敗退した。…

【毛利氏】より

…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…

【吉田[町]】より

…可愛川沿いに水田が開け,米作のほか野菜やシイタケ栽培が行われ,工業団地も造成されている。郡山城跡(史)など毛利氏に関わる史跡が多く,毛利元就はじめ一門の墓所もある。臨済宗の大寺で,元就が京より観世太夫を招いて能狂言を催したという興禅寺の跡地は,郡山公園となっている。…

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