戦国時代の武将。安芸(あき)国高田(たかた)郡吉田郡山(よしだこおりやま)城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。のちに父が兄興元(おきもと)に郡山城を譲って多治比猿掛(たじひさるがけ)城(安芸高田市吉田町)に隠退した際、それに従った。興元とその子幸松丸(こうまつまる)が相次いで早世したため、1523年(大永3)重臣に推されて家督を継ぎ、郡山城に入った。大内・尼子(あまご)両勢力の対立する状況のもとで、安芸における大内方の中心として活動し、40年(天文9)には尼子晴久(はるひさ)の率いる大軍に城を囲まれたが、よくこれを撃退した。以後、内にあっては、50年の重臣井上氏一族誅伐(ちゅうばつ)を契機に家中支配権を確立し、外に向かっては、51年に陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆(よしたか)を弑(しい)したのに乗じ安芸・備後(びんご)に支配を広げ、続いて55年(弘治1)の厳島(いつくしま)の戦いで陶氏を滅ぼし周防(すおう)・長門(ながと)を手中に収めた。さらに66年(永禄9)には出雲(いずも)富田(とだ)城(島根県安来(やすぎ)市)の尼子義久(よしひさ)を降伏させ、68年には大友氏攻撃の軍をおこすなど、諸方面に支配の手を伸ばし、その領域は西は長門から東は備中(びっちゅう)・因幡(いなば)まで10か国に及んだという。死後、嫡孫輝元(てるもと)がその跡を継いだ。
元就がもっとも腐心したのは、広大な領国の統治策である。毛利氏が国人(こくじん)領主出身であり、その版図が急激に拡大したものであったため、そこには支配の統一的原則がなかったからである。とりわけ、もともと毛利氏と対等の関係にあった国衆(くにしゅう)とよばれる有力家臣の存在は、その困難をいっそう大きくした。そこで元就は、征服地の検地などを通じた知行(ちぎょう)制の整備、在地小領主層の家臣への取り立てによる軍事力基盤・在地支配体制の強化、官僚制機構を通じた行政支配の充実などを図った。なかでも特徴的なのは、子供の多いことを利した、養子・婚姻による有力家臣との縁組政策である。その中核が、吉川(きっかわ)家の養子となった二男元春(もとはる)、小早川(こばやかわ)家の養子となった三男隆景(たかかげ)の「毛利両川(りょうせん)」である。彼らは有力家臣家の当主として、また毛利氏一族として、本宗家をよく支えた。
元就は、その経歴ゆえか、性格が非常に細心・慎重で、子供たちにも盛んに訓戒を与えていた。配慮は微細に及び、親・兄が酒のために早世したことから自身は下戸となり、孫の輝元にも飲酒がすぎぬよう戒めた書状が残っているほどである。とりわけ有名なのは、養家に目を向けがちな元春・隆景に、毛利家をおろそかにしてはならぬとして嫡子隆元(たかもと)への協力を諭した書状で、これが、矢は1本では簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくいことを示して、三兄弟の結束を説いたという、かの3本の矢の逸話の源となったとも考えられる。
[池 享]
『三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝 上』(1944・六盟館)』▽『河合正治著『安芸毛利一族』(1984・新人物往来社)』▽『河合正治編『毛利元就のすべて』(1996・新人物往来社)』
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戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ,郡山城主となる。25年以降出雲の尼子氏と絶って周防大内氏に属し,40年(天文9)には尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されたが,籠城戦の末に翌年これを撃退した。引き続き従軍した大内義隆の出雲遠征では敗退したが,大内氏の援助のもとに芸備両国の経略を進めた。安芸守護職を伝える武田氏を銀山(かなやま)城に滅ぼしたほか,安芸の有力国人で石見口を押さえる大朝の吉川(きつかわ)家を次男元春に,同じく瀬戸内に臨む竹原・沼田の両小早川家を三男隆景に相次いで相続させ,芸備国人層の主導的地位を占めた。また50年には老臣井上元兼一族の誅伐を断行して,家中に対する絶対権を確立し権力基盤を整えた。翌年に起きた陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を倒した反乱には,一時静観の態度をとったが,55年(弘治1)厳島の戦で陶軍に大勝し晴賢を自刃させた。その後防長に侵攻し,57年晴賢の擁立した大内義長を滅ぼして防長2国を征服した。引き続き石見経略を進め,大森銀山をめぐって尼子氏と対立し,他方豊前でも大友義鎮と戦った。その後出雲に侵攻して富田月山城を包囲し,66年(永禄9)これを陥れ尼子義久を降伏させた。この間,1563年には嫡子隆元を失ったが,孫の輝元に家督を継がせて後見するとともに,吉川元春,小早川隆景の両川にも宗家を支えさせた。国人領主から一代にして中国地方一帯を支配する戦国大名に成長した元就は,計略に優れた知将であり,その細心さは57年隆元ら3子に結束を説いた教訓状にうかがうことができる。晩年の69年には,大友氏の支援をうけた大内輝弘が周防に,山中鹿介幸盛に擁立された尼子勝久が出雲に相次いで侵入したが,輝元らの平定戦を見守りながら郡山城に病没した。
執筆者:加藤 益幹
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(今谷明)
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1497.3.14~1571.6.14
戦国期の武将。安芸国郡山城(現,広島県安芸高田市吉田町)城主。父は弘元。1523年(大永3)家督となり,25年以後大内氏に属した。50年(天文19)までに子元春・隆景をそれぞれ安芸吉川(きっかわ)氏・備後小早川氏の継嗣とするなど,両国における勢力の拡大につとめた。同年,不服従のめだつ家臣井上元兼らを討ち,主君としての勢威をみせつけた。51年陶晴賢(すえはるかた)が大内氏の実権を握ると,まもなくこれと敵対。55年厳島の戦で大勝し,晴賢を敗死させた。以後領国拡大を進め,大内義長を倒して周防・長門,さらに石見を掌握。62年(永禄5)からは尼子氏を攻め,66年これを滅ぼして出雲をも制圧。内政面では,まとまった法典の制定などはみられなかったが,五人奉行制とよばれる官僚機構を整備。元春・隆景に嫡子隆元・嫡孫輝元を補佐させた「毛利両川体制」は有名。
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…翌年義隆の出雲遠征失敗後も両陣営の対立は続くが,尼子の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。51年陶隆房が義隆打倒の際佐西郡を占領すると,毛利元就は佐東郡の全域を掌中におさめ熊谷・天野をはじめ多くの国衆を従えた。元就は54年5月陶と断交し金山・桜尾等の諸城を奪い厳島を掌中におさめ,翌年厳島を占拠した陶軍を滅ぼし,安芸における覇権を確立した。…
…1555年(弘治1)毛利元就が,安芸国厳島に進駐した陶晴賢(すえはるかた)を討った戦い。これ以後毛利氏の中国地方制覇の道がひらかれる。…
…1508年(永正5)の大内義興上洛の際には国経も随従し,船岡山合戦では元経とともに活躍した。15,17年の武田元繁の山県郡侵入に際して,元経は毛利元就らと協力してこれを破った。40,41年の尼子晴久の安芸侵入の際に興経は尼子方として活躍しており,惨敗した尼子軍は興経の援護をうけて潰走した。…
…1539年(天文8)父の跡を継いで大内義隆の重臣となり,周防守護代。翌年尼子晴久が毛利元就の安芸郡山城を囲むと,大内軍の総大将として救援に赴き,尼子軍を撃退した。さらに出雲遠征を主張,42年義隆の出陣を促して尼子氏の富田城を囲んだが,翌年敗退した。…
…(1)西中国の雄族で中・近世大名(図)。大江広元が相模国毛利荘をその子季光に譲り,季光がここを苗字の地としたのに始まる。季光は宝治合戦(1247)で三浦氏に荷担したため同荘を没収されたが,その第4子経光は荷担せず越後国佐橋荘,安芸国吉田荘等を保持した。経光は1270年(文永7)両所を第4子時親に譲った。吉田荘では96年(永仁4)領家・地頭間で下地中分(したじちゆうぶん)が行われ,時親は吉田,麻原(おはら)を領した。…
…可愛川沿いに水田が開け,米作のほか野菜やシイタケ栽培が行われ,工業団地も造成されている。郡山城跡(史)など毛利氏に関わる史跡が多く,毛利元就はじめ一門の墓所もある。臨済宗の大寺で,元就が京より観世太夫を招いて能狂言を催したという興禅寺の跡地は,郡山公園となっている。…
※「毛利元就」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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