朝日日本歴史人物事典 「観規」の解説
観規
生年:生年不詳
奈良時代の僧。紀伊国名草郡能応里(和歌山市)の生まれ。俗姓三間名干岐。観岐ともいう。『日本霊異記』(下巻第30)にその説話がある。彫刻に巧みで智恵のある僧であるが,農業を営み,妻子を持ち俗人としての生活を送っていた。氏寺を弥勒寺(別称能応寺)といい,丈六の釈迦像,脇侍を作りあげ,10尺の十一面観音像を作ろうとしたが,そのなかばで死んだ。だが2日後に生き返り,仏師に完成を願って2月15日の仏涅槃の日に死んだという。当時の地方の小豪族クラスにおける,造像という物的な側面に対する強烈な意識がみてとれる。<参考文献>景戒編『日本霊異記』
(鷺森浩幸)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報