平安初期の宮廷画家。その画技が正史にも特筆されるほど評価され,単なる工人でなく個人画家として日本で最初に認められた人物。百済人の子孫ではじめ余(あぐり)氏を名のった。もともと武官の出で,左近衛,美作権少目などを歴任し,833年(天長10)には従五位下を授けられ,840年(承和7)百済朝臣の姓を賜った。晩年まで安芸介などを務めた廷臣であった。《今昔物語集》には彼の画才を伝える話として,逃亡した従者の小童の似顔絵を描いて探させ,たちどころに捕らえさせたり,飛驒工(ひだのたくみ)との腕くらべで障子に死人の姿を迫真の筆で描いたという記述がある。また《文徳実録》では〈古人ノ真(故人の肖像)及ビ山水草木等ヲ画イテ生ケルガ如シ〉と賞賛されている。前代以来の唐朝絵画の形似の伝統を受け継ぎ,唐風の人物や山水を写実的妙技で描いたものと思われる。
執筆者:田口 栄一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
(村井康彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
平安前期の画家。百済帰化人の後裔(こうえい)で、本姓は余(あくり)。808年(大同3)左近衛(さこんえ)、840年(承和7)百済朝臣(あそん)となる。武官として仕え武芸に長じる一方、画技に優れていた。肖像、山水、草木などをよくし、事物の特徴をとらえるのに巧みであったという。遺品はないが、当時の中国唐(とう)朝絵画の画風を受け継いでいたと考えられている。正史に特筆された最初の俗人画家として、画家の祖のように扱われ、その逸話や伝説は『今昔物語集』などに見える。
[加藤悦子]
782~853.8.24
平安前期の画家。百済からの渡来人の子孫。本姓は余(よ),840年(承和7)百済朝臣の姓を賜る。808年(大同3)左近衛府,833年(天長10)には従五位下を授けられ,晩年は備中介・播磨介などに任ぜられた武官であるが,すぐれた画技がはじめて正史で特筆されるほど,画家として知られた人物。「文徳実録」にも「皆自ら生けるが如し」とあり,その描法は奈良時代以来の伝統である唐朝絵画の写実的表現法にのっとっていたと推定される。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新