コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

百済河成 くだらのかわなり

8件 の用語解説(百済河成の意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

百済河成
くだらのかわなり

[生]延暦1(782)
[没]仁寿3(853).8.24. 京都
平安時代初頭の画家。百済からの渡来人の子孫で余 (あぐり) を本姓としたが,承和7 (840) 年に百済朝臣 (あそん) の姓を賜わり,安芸,備中,播磨などの介 (すけ) を歴任。さらにすぐれた画技によって重んじられ,特に肖像画や山水草木画などいずれも真に迫ったものとして称賛された。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉の解説

くだら‐の‐かわなり〔‐かはなり〕【百済河成】

[782~853]平安初期の画家。百済からの渡来人の子孫で、姓は余(あぐり)。のち百済朝臣の姓を賜る。武官であったが、画技にすぐれた。作品は現存しないが、正史に名を残す最初の画家。今昔物語によると、肖像・山水・草木などを緻密(ちみつ)に描いたという。

出典|小学館 この辞書の凡例を見る
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百科事典マイペディアの解説

百済河成【くだらのかわなり】

平安時代初期の画家。本姓余(あぐり),のち百済姓を賜る。武官でもあったが,正史に画名の出た最初の人として著名。画跡は不明であるが,文献によると写実的な肖像,山水草木に巧みで,平安時代世俗画の出発点になったとされ,巨勢金岡(こせのかなおか)とともに,平安絵画史上重要。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. ご提供する『百科事典マイペディア』は2010年5月に編集・制作したものです

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

百済河成 くだらの-かわなり

782-853 平安時代前期の画家。
延暦(えんりゃく)元年生まれ。百済(朝鮮)からの渡来人の子孫。姓ははじめ余(よ),承和(じょうわ)7年(840)百済に改姓。武官としてつかえ,美作権少目(みまさかのごんのしょうさかん),安芸介(あきのすけ),播磨(はりまの)介などをつとめる。画技にすぐれ,人物,山水,草木などを写実的にえがき,しばしば宮中にまねかれる。「今昔物語集」に逸話や伝説がある。仁寿(にんじゅ)3年8月24日死去。72歳。

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

百済河成

没年:仁寿3.8.24(853.9.30)
生年:延暦1(782)
平安前期の画家。先祖は百済の出で,本姓は余。承和7(840)年百済朝臣を賜る。武勇に長じ大同3(808)年左兵衛府の舎人として出仕するが,絵画の才を発揮し,描くところの人物や山水草木は「自生のごとし(まるで生きているようだ)」と称賛された。河成が従者を呼ぶのにその「形体」を描いて示したところ難なくみつかったという話(『文徳実録』)や,ある飛騨工が,河成の描いた屍に腐臭を感じて逃げ出したというエピソード(『今昔物語』)は,いずれもその卓抜な技量を物語っている。ただし作品は現存しない。嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のちの大覚寺。京都市右京区)の滝殿の石を立てたとも伝える(『今昔物語』)。天長10(833)年外従五位下。承和年中(834~848)備中介,播磨介を歴任。

(村井康彦)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

世界大百科事典 第2版の解説

くだらのかわなり【百済河成】

782‐853(延暦1‐仁寿3)
平安初期の宮廷画家。その画技が正史にも特筆されるほど評価され,単なる工人でなく個人画家として日本で最初に認められた人物。百済人の子孫ではじめ余(あぐり)氏を名のった。もともと武官の出で,左近衛,美作権少目などを歴任し,833年(天長10)には従五位下を授けられ,840年(承和7)百済朝臣の姓を賜った。晩年まで安芸介などを務めた廷臣であった。《今昔物語集》には彼の画才を伝える話として,逃亡した従者の小童の似顔絵を描いて探させ,たちどころに捕らえさせたり,飛驒工(ひだのたくみ)との腕くらべで障子に死人の姿を迫真の筆で描いたという記述がある。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
All Rights Reserved. Copyright (C) 2015, Hitachi Solutions Create,Ltd. 収録データは1998年10月に編集製作されたものです。それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。また、本文中の図・表・イラストはご提供しておりません。

大辞林 第三版の解説

くだらのかわなり【百済河成】

782~853) 平安前期の画家。百済からの渡来人の子孫。姓は余あぐり。のち百済朝臣の姓を賜る。武官として備中介・播磨介などにも任ぜられた。画技については「今昔物語」に飛驒工ひだのたくみとの技くらべの逸話があるが、確実な作品は現存しない。

出典|三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

百済河成
くだらかわなり
(782―853)

平安前期の画家。百済帰化人の後裔(こうえい)で、本姓は余(あくり)。808年(大同3)左近衛(さこんえ)、840年(承和7)百済朝臣(あそん)となる。武官として仕え武芸に長じる一方、画技に優れていた。肖像、山水、草木などをよくし、事物の特徴をとらえるのに巧みであったという。遺品はないが、当時の中国唐(とう)朝絵画の画風を受け継いでいたと考えられている。正史に特筆された最初の俗人画家として、画家の祖のように扱われ、その逸話や伝説は『今昔物語集』などに見える。[加藤悦子]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

百済河成の関連キーワード百済楽狩野永雲百済永慶百済教仁百済貞香百済善光長谷川等林法師君莫古基良親王

今日のキーワード

災害派遣

天災地変その他の災害に際して,人命または財産の保護のために行なわれる自衛隊の派遣。災害出動ともいう。都道府県知事などの要請に基づいて,防衛大臣が派遣することを原則とするが,特に緊急を要する場合,要請を...

続きを読む

コトバンク for iPhone