百済河成(読み)クダラノカワナリ

デジタル大辞泉 「百済河成」の意味・読み・例文・類語

くだら‐の‐かわなり〔‐かはなり〕【百済河成】

[782~853]平安初期の画家百済からの渡来人子孫で、姓はあぐり。のち百済朝臣の姓を賜る。武官であったが、画技にすぐれた。作品は現存しないが、正史に名を残す最初の画家。今昔物語によると、肖像・山水・草木などを緻密ちみつに描いたという。

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精選版 日本国語大辞典 「百済河成」の意味・読み・例文・類語

くだら の かわなり【百済河成】

  1. 平安初期の画家。百済の渡来人の子孫。初姓、余(あぐり)。のち百済朝臣の姓を受ける。武官として朝廷に仕え、備中介、播磨介を歴任。作品は伝わらないが、日本絵画史上に最初に現われた人として、画家の祖とされる。「今昔物語集」に、飛騨工(ひだのたくみ)との技比べの話がある。延暦元~仁寿三年(七八二‐八五三

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改訂新版 世界大百科事典 「百済河成」の意味・わかりやすい解説

百済河成 (くだらのかわなり)
生没年:782-853(延暦1-仁寿3)

平安初期の宮廷画家。その画技が正史にも特筆されるほど評価され,単なる工人でなく個人画家として日本で最初に認められた人物。百済人の子孫ではじめ余(あぐり)氏を名のった。もともと武官の出で,左近衛,美作権少目などを歴任し,833年(天長10)には従五位下を授けられ,840年(承和7)百済朝臣の姓を賜った。晩年まで安芸介などを務めた廷臣であった。《今昔物語集》には彼の画才を伝える話として,逃亡した従者の小童の似顔絵を描いて探させ,たちどころに捕らえさせたり,飛驒工(ひだのたくみ)との腕くらべで障子に死人の姿を迫真の筆で描いたという記述がある。また《文徳実録》では〈古人ノ真(故人の肖像)及ビ山水草木等ヲ画イテ生ケルガ如シ〉と賞賛されている。前代以来の唐朝絵画の形似の伝統を受け継ぎ,唐風の人物や山水を写実的妙技で描いたものと思われる。
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朝日日本歴史人物事典 「百済河成」の解説

百済河成

没年:仁寿3.8.24(853.9.30)
生年:延暦1(782)
平安前期の画家。先祖は百済の出で,本姓は余。承和7(840)年百済朝臣を賜る。武勇に長じ大同3(808)年左兵衛府の舎人として出仕するが,絵画の才を発揮し,描くところの人物や山水草木は「自生のごとし(まるで生きているようだ)」と称賛された。河成が従者を呼ぶのにその「形体」を描いて示したところ難なくみつかったという話(『文徳実録』)や,ある飛騨工が,河成の描いた屍に腐臭を感じて逃げ出したというエピソード(『今昔物語』)は,いずれもその卓抜な技量を物語っている。ただし作品は現存しない。嵯峨天皇の離宮嵯峨院(のちの大覚寺。京都市右京区)の滝殿の石を立てたとも伝える(『今昔物語』)。天長10(833)年外従五位下。承和年中(834~848)備中介,播磨介を歴任。

(村井康彦)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「百済河成」の意味・わかりやすい解説

百済河成
くだらかわなり
(782―853)

平安前期の画家。百済帰化人の後裔(こうえい)で、本姓は余(あくり)。808年(大同3)左近衛(さこんえ)、840年(承和7)百済朝臣(あそん)となる。武官として仕え武芸に長じる一方、画技に優れていた。肖像、山水、草木などをよくし、事物の特徴をとらえるのに巧みであったという。遺品はないが、当時の中国唐(とう)朝絵画の画風を受け継いでいたと考えられている。正史に特筆された最初の俗人画家として、画家の祖のように扱われ、その逸話や伝説は『今昔物語集』などに見える。

[加藤悦子]

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「百済河成」の解説

百済河成 くだらの-かわなり

782-853 平安時代前期の画家。
延暦(えんりゃく)元年生まれ。百済(朝鮮)からの渡来人の子孫。姓ははじめ余(よ),承和(じょうわ)7年(840)百済に改姓。武官としてつかえ,美作権少目(みまさかのごんのしょうさかん),安芸介(あきのすけ),播磨(はりまの)介などをつとめる。画技にすぐれ,人物,山水,草木などを写実的にえがき,しばしば宮中にまねかれる。「今昔物語集」に逸話や伝説がある。仁寿(にんじゅ)3年8月24日死去。72歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「百済河成」の解説

百済河成
くだらのかわなり

782~853.8.24

平安前期の画家。百済からの渡来人の子孫。本姓は余(よ),840年(承和7)百済朝臣の姓を賜る。808年(大同3)左近衛府,833年(天長10)には従五位下を授けられ,晩年は備中介・播磨介などに任ぜられた武官であるが,すぐれた画技がはじめて正史で特筆されるほど,画家として知られた人物。「文徳実録」にも「皆自ら生けるが如し」とあり,その描法は奈良時代以来の伝統である唐朝絵画の写実的表現法にのっとっていたと推定される。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「百済河成」の意味・わかりやすい解説

百済河成
くだらのかわなり

[生]延暦1(782)
[没]仁寿3(853).8.24. 京都
平安時代初頭の画家。百済からの渡来人の子孫で余 (あぐり) を本姓としたが,承和7 (840) 年に百済朝臣 (あそん) の姓を賜わり,安芸,備中,播磨などの介 (すけ) を歴任。さらにすぐれた画技によって重んじられ,特に肖像画や山水草木画などいずれも真に迫ったものとして称賛された。唐風の絵画技法に習熟し,日本の画家として社会的な評価を得た最初の人。

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百科事典マイペディア 「百済河成」の意味・わかりやすい解説

百済河成【くだらのかわなり】

平安時代初期の画家。本姓余(あぐり),のち百済姓を賜る。武官でもあったが,正史に画名の出た最初の人として著名。画跡は不明であるが,文献によると写実的な肖像,山水草木に巧みで,平安時代世俗画の出発点になったとされ,巨勢金岡(こせのかなおか)とともに,平安絵画史上重要。

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旺文社日本史事典 三訂版 「百済河成」の解説

百済河成
くだらのかわなり

782〜853
平安初期の画家
百済系渡来人の子孫。朝廷に武官として仕えたが,画技で有名。備中介・播磨介などを歴任した。『今昔物語集』に飛驒工 (ひだのたくみ) との技くらべなどの逸話があるが,確実な作品は現存しない。

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