清原夏野(読み)キヨハラノナツノ

デジタル大辞泉 「清原夏野」の意味・読み・例文・類語

きよはら‐の‐なつの【清原夏野】

[782~837]平安前期の貴族学者清原家の祖。小倉王の子で清原の姓を賜り、臣籍に下った。内裏式改訂令義解りょうのぎげ日本後紀編集にあたった。

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精選版 日本国語大辞典 「清原夏野」の意味・読み・例文・類語

きよはら‐の‐なつの【清原夏野】

  1. 平安初期の学者。右大臣大納言舎人(とねり)親王の曾孫。小倉王の第五子。延暦二三年(八〇四)清原真人の姓をうけて臣籍に下る。「内裏式」の改訂、「令義解」の編集に参加。双岡(ならびがおか)大臣。比寺(ならびでら)大臣。延暦元~承和四年(七八二‐八三七

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改訂新版 世界大百科事典 「清原夏野」の意味・わかりやすい解説

清原夏野 (きよはらのなつの)
生没年:782-837(延暦1-承和4)

平安初期の貴族。舎人(とねり)親王の曾孫。正五位下小倉王の第5子。はじめ繁野王といったが,804年(延暦23)清原真人を賜姓されたときに夏野と改めた。803年内舎人,810年(弘仁1)蔵人,811年従五位下で大伴親王(のちの淳和天皇)の春宮亮。823年に淳和天皇が即位すると以後めざましく昇進し,まず従四位下蔵人頭・左近衛中将ついで参議,825年(天長2)従三位中納言・左衛門督,826年左近衛大将・民部卿を兼ね,830年大納言,832年右大臣となり,833年従二位。《令義解》(833)の撰定を主宰し,また《日本後紀》(840)の編纂に途中から参加し,833年には《内裏式》(821)を修補した。このほか,百姓による常荒田一身の耕作・六年後輸租の制度や親王任国を提案して採用され,また封物で播磨国魚住船瀬を修造した。別荘双岡山荘にちなんで,比(ならび)大臣,双岡大臣と呼ばれる。《経国集》(827)の作者でもある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「清原夏野」の意味・わかりやすい解説

清原夏野
きよはらのなつの
(782―837)

平安初期の官僚。舎人(とねり)親王の孫小倉(おぐら)王の子で母は小野氏。幼名を繁野(しげの)王といったが、804年(延暦23)に父の上表により清原真人(まひと)を賜姓され、名を夏野と改めた。内舎人(うどねり)を経て、810年(弘仁1)に蔵人(くろうど)となり、淳和(じゅんな)天皇の即位に伴い蔵人頭(とう)兼左近衛(さこのえ)中将となり、ついで参議となった。825年(天長2)従三位(じゅさんみ)中納言(ちゅうなごん)兼左衛門督(さえもんのかみ)となり、左近衛大将、民部卿(きょう)などを歴任し、832年には右大臣となった。この間『日本後紀』の編纂(へんさん)に加わり、833年には『令義解(りょうのぎげ)』を撰進(せんしん)し、また『内裏式(だいりしき)』も修補した。常陸(ひたち)など3国の国守に親王を任ずる親王任国制はその提案による。詩文を愛し『経国集(けいこくしゅう)』の作者でもある。別業双岡(ならびがおか)山荘の名より比(ならび)大臣、双岡大臣ともよばれた。

[佐藤宗諄]

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朝日日本歴史人物事典 「清原夏野」の解説

清原夏野

没年:承和4.10.7(837.11.8)
生年:延暦1(782)
平安前期の公卿。小倉王と右馬頭小野縄手(綱手とも)の娘の子。はじめ繁野王と称したが,延暦23(804)年6月清原真人を賜姓され,夏野と改名した。桓武,平城,嵯峨,淳和,仁明の5代の天皇に仕え,天長9(832)年右大臣,翌10年従二位に昇進。この間『内裏式』の改訂や『日本後紀』『令義解』などの編纂に従事する一方,親王を上総,下総,上野3国の長官に任じる,いわゆる「親王任国」の設置を提案するなど政治面でも活躍した。名勝双ケ岡(京都市右京区)の東麓に山荘を営んだので双岡大臣と称された。ここに天長7年,淳和天皇を招き,承和1(834)年には嵯峨上皇が臨幸して詩宴が催され,妻の葛井庭子や子の滝雄らが叙爵されている。右京区花園の法金剛院が山荘跡と伝えられる。弘仁6(815)年4月,嵯峨天皇の近江梵釈寺の行幸に従ったときの詩は『経国集』に収められる。<参考文献>滝川政次郎「右大臣清原夏野伝」(『国学院大学紀要』5)

(瀧浪貞子)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「清原夏野」の解説

清原夏野
きよはらのなつの

782~837.10.7

平安前期の公卿。父は小倉王(舎人(とねり)親王の孫),母は小野綱手の女。子に滝雄・沢雄・秋雄がいる。幼名繁野(しげの)。双岡(ならびがおか)大臣・比(ならび)大臣とも称する。804年(延暦23)清原真人(まひと)を賜り,夏野を名のる。823年(弘仁14)淳和天皇の即位にともない,春宮亮(とうぐうのすけ)から蔵人頭(くろうどのとう)となる。のち右大臣・従二位に昇った。「日本後紀」「令義解」「内裏式」の編纂・撰進に尽力。たびたび同天皇を双岡山荘に迎える。民部卿を勤め,親王任国の設置などを献策した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「清原夏野」の解説

清原夏野 きよはらの-なつの

782-837 平安時代前期の公卿(くぎょう),漢学者。
延暦(えんりゃく)元年生まれ。小倉王の5男。清原春子の父。弘仁(こうにん)14年参議。淳和(じゅんな)天皇に信任されて従二位,右大臣にすすむ。「令義解(りょうのぎげ)」の撰定を主宰し,「日本後紀」の編修にも参加。詩文は「経国集」にみられる。承和(じょうわ)4年10月7日死去。56歳。幼名は繁野(しげの)王。通称は比(ならび)大臣,双岡(ならびがおか)大臣。

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旺文社日本史事典 三訂版 「清原夏野」の解説

清原夏野
きよはらのなつの

782〜837
平安初期の学者
舎人 (とねり) 親王の曽孫小倉王の第5子。右大臣・民部卿となり,京都の西方双ヶ岡 (ならびがおか) に山荘を建て双岡大臣とも称された。藤原緒嗣 (おつぐ) らと『日本後紀』を撰修。また『令義解 (りようのぎげ) 』を撰上し,内裏式の改訂にも参加した。漢詩が『経国集』に収録されている。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「清原夏野」の意味・わかりやすい解説

清原夏野
きよはらのなつの

[生]延暦1(782)
[没]承和4(837).10.7. 京都
平安時代初期の廷臣。小倉王の子。右大臣。初名繁野。延暦 23 (804) 年清原真人姓を賜い夏野と改めた。『日本後紀』『令義解』の編纂に従事。

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