精選版 日本国語大辞典 「光仁天皇」の意味・読み・例文・類語
こうにん‐てんのう クヮウニンテンワウ【光仁天皇】
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第49代とされる天皇(在位770~781)。諱(いみな)は白壁(しらかべ)、諡号(しごう)は天宗高紹天皇(あまむねたかつぎのすめらみこと)。天智(てんじ)天皇の孫で、施基(しき)皇子の第6子、母は紀諸人(きのもろひと)の女橡姫(むすめとちひめ)。聖武(しょうむ)天皇の没後、聖武の女井上(いのえ)内親王を室とする白壁王は、酒をほしいままにして皇位継承をめぐる争いに巻き込まれることを避けた。770年(宝亀1)称徳(しょうとく)天皇の没後、藤原永手(ながて)・百川(ももかわ)らによって皇太子に擁立され、同年即位。初め皇后井上内親王所生の他戸(おさべ)親王を皇太子としたが、772年大逆を理由に皇后・皇太子を廃し、翌年高野新笠(たかののにいがさ)を母とする皇子山部(やまべ)親王(桓武(かんむ)天皇)を皇太子とし、聖武系の皇統と絶縁した。天皇は、不要の令外官(りょうげのかん)を廃止して財政を緊縮し、また虚弱な兵士にかえて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとった。東北地方の支配の拡大にも努めたが、780年蝦夷伊治呰麻呂(えぞいじのあざまろ)の反乱が起こり、諸問題の解決は次の桓武朝にゆだねられた。陵墓は奈良市田原東(たわらひがし)陵。
[笹山晴生]
(橋本義則)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
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709.10.13~781.12.23
在位770.10.1~781.4.3
白壁(しらかべ)王・天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇と称する。天智天皇の孫で,施基(しき)皇子の第六子。母は紀諸人(きのもろひと)の女橡姫(とちひめ)。770年(宝亀元)称徳天皇の没時に皇太子となり,2カ月後に即位した。称徳天皇時代の政治・財政の混乱を収拾するため,官司・官人の整理,農民負担の軽減などをはかったが,東北では国家の支配に対する蝦夷(えみし)の抵抗が強まり,780年には伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱がおこった。781年(天応元)病気のため皇太子山部親王(桓武天皇)に譲位し,同年没した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…在位781‐806年。光仁天皇を父とし,高野新笠を母として生まれ,名を山部(やまべ)王といった。父は天智天皇の孫,施基(しき)皇子の子で白壁(しらかべ)王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが,770年(宝亀1)称徳天皇が没したとき,62歳で皇位を継承した。…
…百川は左大臣藤原永手,参議藤原良継らとはかってこれに反対し,宣命の語を偽作して白壁王の立太子を強行した。白壁王は770年10月即位した(光仁天皇)。《続日本紀》の百川の伝によると,天皇ははなはだ百川を信任し,ゆだねるに腹心をもってし,内外の機務でかかわり知らないものがなかったという。…
※「光仁天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版について | 情報
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