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光仁天皇 こうにんてんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

光仁天皇
こうにんてんのう

[生]和銅2(709).10.13. 奈良
[没]天応1(781).12.23. 奈良
第 49代の天皇 (在位 770~781) 。名は白壁。施基親王 (春日宮天皇) の王子,天智天皇の孫。母は贈太后紀橡媛 (きのつるばみひめ) 。神護景雲4 (770) 年称徳天皇が没すると皇太子に立てられ,次いで即位し,宝亀と改元。ここに皇位は天武系より天智の系統に移った。正妃井上内親王 (聖武天皇の皇女) を皇后に立て,その子他戸 (おさべ) 親王を皇太子としたが,宝亀3 (772) 年皇后がひそかに天皇を呪い殺そうとしたという理由で皇后,皇太子を廃した。天皇は道鏡を下野に流し,和気清麻呂らを召還した。不必要な令外官を停廃し,軍団と兵士の制を縮小するなど財政の緊縮に努め,綱紀の振粛を目的とし,奈良時代の政教の腐敗を改めることに努力した。天応1 (781) 年位を皇太子山部王 (桓武天皇) に譲った。陵墓は奈良市日笠町の田原東陵。

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デジタル大辞泉の解説

こうにん‐てんのう〔クワウニンテンワウ〕【光仁天皇】

[709~782]第49代天皇。在位、770~781。天智天皇の孫。志貴皇子の第6王子。名は白壁称徳天皇没後、藤原永手藤原百川らに擁立されて即位道鏡を下野(しもつけ)薬師寺別当に左遷し、皇后・皇太子を反逆の罪で廃するなど、政治的に多難であった。

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百科事典マイペディアの解説

光仁天皇【こうにんてんのう】

天智天皇の孫,施基(しき)皇子の第6子。称徳天皇の没後,藤原永手(ながて)らに擁立され,770年62歳で即位。称徳治下の僧綱(そうごう)政治を退けて道鏡を左遷,諸政の刷新・綱紀粛正をはかり,蝦夷対策にも乗り出すなど,つぎの桓武天皇の政治改革に先鞭をつけた。
→関連項目早良親王高野新笠藤原魚名藤原百川

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

光仁天皇 こうにんてんのう

709-782* 奈良時代,第49代天皇。在位770-781。
和銅2年10月13日生まれ。施基(しきの)皇子の第6王子。母は紀橡姫(きの-とちひめ)。天智天皇の孫で,父は田原天皇とも称された。称徳天皇の死で急遽皇太子となり,宝亀(ほうき)元年62歳で即位。道鏡をしりぞけ,和気清麻呂(わけの-きよまろ)を配流先から都にもどすなど,政治の刷新をした。天応元年病気のため譲位。天応元年12月23日死去。73歳。墓所は田原東陵(たわらのひがしのみささぎ)(奈良市)。別名は白壁(しらかべ)王,天宗高紹天皇(あまむねたかつぐのすめらみこと),後田原天皇。

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朝日日本歴史人物事典の解説

光仁天皇

没年:天応1.12.23(782.1.11)
生年:和銅2.10.13(709.11.18)
奈良時代の天皇。諱は白壁。父は天智天皇の皇子施基皇子(志貴皇子)で,その第6子。母は贈太政大臣紀諸人の娘橡姫。井上内親王との間に他戸親王,高野新笠との間に山部親王(のちの桓武天皇),早良親王が生まれている。天平9(737)年無位から従四位下に叙され,天平宝字3(759)年従三位に至った。6年中納言に任じられ,天平神護2(766)年大納言となった。神護景雲4(770)年8月4日称徳天皇の崩御により,壬申の乱(672)以降続いてきた天武天皇の血統による皇位継承はとだえた。白壁王は藤原永手,百川らによって皇太子に立てられ,道鏡を左遷し,10月1日に即位,宝亀と改元した。時に62歳。即位前は,皇族が次々と罪に陥れられ廃されていくのを見,酒に浸って難を避けたと『続日本紀』は伝える。光仁天皇の時代には,官僚組織の縮小再編成(令外官,冗官の整理,廃止),緊縮財政政策など,奈良時代の度重なる政争で肥大し傾いた律令制を再建する努力が行われ,平安時代の基礎が築かれた。天応1(781)年4月3日,病により皇太子山部親王に譲位。崩御後,天宗高紹天皇と諡され,延暦1(782)年1月7日に広岡山陵(奈良市)に葬られ,5年には田原陵(奈良市)に改葬された。<参考文献>中川収『奈良朝政治史の研究』

(橋本義則)

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世界大百科事典 第2版の解説

こうにんてんのう【光仁天皇】

709‐781(和銅2‐天応1)
第49代に数えられる奈良後期の天皇。在位770‐781年。天智天皇の孫,施基(志貴)皇子の第6子,母は紀諸人の女橡姫(とちひめ)。諱(いみな)は白壁,和風諡号(しごう)を天宗高紹(あまむねたかつぎ)天皇という。737年(天平9)無位から従四位下に叙せられ,以後累進して正三位大納言に至ったが,その間飲酒をほしいままにして皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けていた。しかし770年8月に称徳天皇が没し,天武系の皇統が絶えると,藤原百川,永手らに擁立されて皇太子となり,道鏡を下野薬師寺別当に左遷した。

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大辞林 第三版の解説

こうにんてんのう【光仁天皇】

709~781) 第四九代天皇(在位770~781)。名は白壁しらかべ。天智天皇の孫。施基しき皇子の子。称徳天皇の死後、藤原永手・百川らに擁立されて即位。道鏡を下野しもつけに左遷し、和気清麻呂を召還するなど、前代の仏教偏重の政治を改めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

光仁天皇
こうにんてんのう
(709―781)

第49代とされる天皇(在位770~781)。諱(いみな)は白壁(しらかべ)、諡号(しごう)は天宗高紹天皇(あまむねたかつぎのすめらみこと)。天智(てんじ)天皇の孫で、施基(しき)皇子の第6子、母は紀諸人(きのもろひと)の女橡姫(むすめとちひめ)。聖武(しょうむ)天皇の没後、聖武の女井上(いのえ)内親王を室とする白壁王は、酒をほしいままにして皇位継承をめぐる争いに巻き込まれることを避けた。770年(宝亀1)称徳(しょうとく)天皇の没後、藤原永手(ながて)・百川(ももかわ)らによって皇太子に擁立され、同年即位。初め皇后井上内親王所生の他戸(おさべ)親王を皇太子としたが、772年大逆を理由に皇后・皇太子を廃し、翌年高野新笠(たかののにいがさ)を母とする皇子山部(やまべ)親王(桓武(かんむ)天皇)を皇太子とし、聖武系の皇統と絶縁した。天皇は、不要の令外官(りょうげのかん)を廃止して財政を緊縮し、また虚弱な兵士にかえて富裕な農民を採用するなど、農民の労役負担を軽減する措置をとった。東北地方の支配の拡大にも努めたが、780年蝦夷伊治呰麻呂(えぞいじのあざまろ)の反乱が起こり、諸問題の解決は次の桓武朝にゆだねられた。陵墓は奈良市田原東(たわらひがし)陵。[笹山晴生]

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367日誕生日大事典の解説

光仁天皇 (こうにんてんのう)

生年月日:709年10月13日
奈良時代の第49代の天皇
782年没

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世界大百科事典内の光仁天皇の言及

【桓武天皇】より

…在位781‐806年。光仁天皇を父とし,高野新笠を母として生まれ,名を山部(やまべ)王といった。父は天智天皇の孫,施基(しき)皇子の子で白壁(しらかべ)王といい,天武系皇統の世に官人として仕え,大納言に昇ったが,770年(宝亀1)称徳天皇が没したとき,62歳で皇位を継承した。…

【藤原百川】より

…百川は左大臣藤原永手,参議藤原良継らとはかってこれに反対し,宣命の語を偽作して白壁王の立太子を強行した。白壁王は770年10月即位した(光仁天皇)。《続日本紀》の百川の伝によると,天皇ははなはだ百川を信任し,ゆだねるに腹心をもってし,内外の機務でかかわり知らないものがなかったという。…

※「光仁天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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