調殿村(読み)つきどのむら

日本歴史地名大系 「調殿村」の解説

調殿村
つきどのむら

[現在地名]西都市調殿

南方みなみかた村の南西、一ッ瀬川(穂北川)の東岸にあり、東部は茶臼原ちやうすばる台地に連なり、西部には集落水田が広がる。南西の佐土原藩領の妻万つま村との境を米良めら街道が通る。宇佐大鏡では宮崎庄の御封田七七町の内に「調殿七丁二反」、庄田起請定田の内訳のなかに「富(田カ)丁十代調殿十丁三反十代」がみえる。安元二年(一一七六)二月日の八幡宇佐宮符写(奈多八幡縁起私記)によると豊前宇佐宮の行幸会の綾御船の水手を「富田・調殿合一人」というかたちで出しており、同じ宮崎庄内の富田とんだ(現新富町)と密接な関係にあったと推測される。建久図田帳では宇佐宮領として「調殿十六丁」とあり、児湯こゆ郡内とされ地頭は中原親能であった。文和三年(一三五四)一〇月一六日の戸次浄心申状案(立花家文書)によると、浄心は他の所領とともに惣領である大友氏時に「宮崎庄内調殿村」を譲与している。この頃になっても当地が宮崎庄内であるという意識が存続していたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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