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羽柴秀長 はしばひでなが

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

羽柴秀長
はしばひでなが

[生]天文10(1541).尾張
[没]天正19(1591).1.22. 大和
大和大納言ともいう。安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の弟。竹阿弥の子という説もあるが,出生年から考えると矛盾が生じる。幼名,小竹。通称,小一郎。長秀,のち秀長と改めた。秀吉に従って軍功があり,但馬出石城主となり,天正 10 (1582) 年山崎の戦いののち,従五位下,美濃守に叙せられ,播磨,但馬2国を領し,姫路城主となった。

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出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉の解説

はしば‐ひでなが【羽柴秀長】

[1541~1591]安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。秀吉をよく補佐し、各地で戦功をあげた。のち、大和郡山を領して大和大納言といわれた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

羽柴秀長 はしば-ひでなが

1540-1591 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)9年生まれ。豊臣秀吉の異父弟。政権の中枢にあって秀吉を補佐した。中国攻めで戦功をたて四国平定では秀吉の代理をつとめ,その功によって大和郡山(こおりやま)城主となる。のち権(ごんの)大納言となり,大和大納言と称された。天正(てんしょう)19年1月22日死去。52歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。初名は長秀。通称は小一郎。
【格言など】かけて今日行幸(みゆき)をまつの藤浪のゆかり嬉しき花の色かな(「太閤記」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

羽柴秀長

没年:天正19.1.22(1591.2.15)
生年:天文9(1540)
戦国・安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟とされるが,秀吉の父弥右衛門の死が天文12(1543)年なので,秀長も弥右衛門の子と考えられる。母はなか(大政所)。通称は小一郎で,名は,はじめ長秀,天正12(1584)年から秀長と名乗っている。譜代家臣を持たない秀吉に早くから仕え,天正2年の伊勢長島一向一揆攻めでは丹羽長秀,前田利家らと先陣を務め,同5年の第1次但馬攻め,同8年の第2次但馬攻めでは総大将を務めており,但馬の竹田・出石城の城代となった。兄が山陽を,弟が山陰を攻めるという兄弟間の分業がみごとにはかられ,また秀吉が総大将,秀長が副将という戦いがいくつもあり,同13年の四国攻めのときは,秀吉が総大将の予定であったが急に病気になったため,秀長が代わって総大将になっている。まさに「分身」であった。四国攻め後,それまでの紀伊・和泉64万石に大和一国が加増され,一躍110万石となり,居城をそれまでの紀伊若山(和歌山)から大和郡山に移している。同15年の九州攻めにおいても15万の大軍の将として島津攻めの先鋒となり,戦後,従二位・権大納言に叙任され,大和大納言と呼ばれた。秀吉の補佐役として手腕を発揮したが,病気には勝てず,大和郡山城で没した。

(小和田哲男)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

はしばひでなが【羽柴秀長】

1541~1591) 安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の異父弟。秀吉に従って軍功をたて大和郡山城主となった。温和な性格が衆望を集め、よく秀吉の天下統一を補佐した。豊臣秀長。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

羽柴秀長
はしばひでなが
(1540―1591)

安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣(とよとみ)秀吉の弟。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。竹阿弥(ちくあみ)の子という説は出生年から矛盾がある。小一郎と称す。秀吉に従って各地に転戦し、中国経略では一方の将として奮闘した。秀吉の信任深く、器量秀で、1585年(天正13)の四国征伐では秀吉の名代を勤め、その功により大和郡山(やまとこおりやま)城主となり70余万石を領した。86年参議、ついで権中納言(ごんちゅうなごん)となり、87年従(じゅ)二位・権大納言に上り、大和大納言と称された。その温厚の資をもって秀吉をよく輔(たす)け、政権の要に位置し「内々の儀は宗易(そうえき)(千利休(せんのりきゅう))、公儀の事は宰相(さいしょう)(秀長)存じ候」といわれたが、晩年病気がちで神仏への平癒祈願もかいなく天正(てんしょう)19年正月22日、郡山城で病死した。[橋本政宣]

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