デジタル大辞泉
「羽柴秀長」の意味・読み・例文・類語
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はしば‐ひでなが【羽柴秀長】
- 安土桃山時代の武将。秀吉の異父弟。父は竹阿彌。秀吉に従って各地で戦功をあげ、四国・九州征伐を指揮。大和郡山で百万石を領し、大和大納言といわれた。天文一〇~天正一九年(一五四一‐九一)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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羽柴秀長
はしばひでなが
(1540―1591)
安土(あづち)桃山時代の武将。豊臣(とよとみ)秀吉の弟。尾張(おわり)中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門(やえもん)の子。竹阿弥(ちくあみ)の子という説は出生年から矛盾がある。小一郎と称す。秀吉に従って各地に転戦し、中国経略では一方の将として奮闘した。秀吉の信任深く、器量秀で、1585年(天正13)の四国征伐では秀吉の名代を勤め、その功により大和郡山(やまとこおりやま)城主となり70余万石を領した。86年参議、ついで権中納言(ごんちゅうなごん)となり、87年従(じゅ)二位・権大納言に上り、大和大納言と称された。その温厚の資をもって秀吉をよく輔(たす)け、政権の要に位置し「内々の儀は宗易(そうえき)(千利休(せんのりきゅう))、公儀の事は宰相(さいしょう)(秀長)存じ候」といわれたが、晩年病気がちで神仏への平癒祈願もかいなく天正(てんしょう)19年正月22日、郡山城で病死した。
[橋本政宣]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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羽柴秀長
はしばひでなが
[生]天文10(1541).尾張
[没]天正19(1591).1.22. 大和
大和大納言ともいう。安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の弟。竹阿弥の子という説もあるが,出生年から考えると矛盾が生じる。幼名,小竹。通称,小一郎。長秀,のち秀長と改めた。秀吉に従って軍功があり,但馬出石城主となり,天正 10 (1582) 年山崎の戦いののち,従五位下,美濃守に叙せられ,播磨,但馬2国を領し,姫路城主となった。同 13年四国征伐の総大将となり,のち大和郡山城主となり,紀伊,和泉,大和を領し,同 14年従三位,参議,同 15年九州平定ののち従二位,権大納言に進んだ。常に秀吉の陰にあって補佐した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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羽柴秀長 はしば-ひでなが
1540-1591 織豊時代の武将。
天文(てんぶん)9年生まれ。豊臣秀吉の異父弟。政権の中枢にあって秀吉を補佐した。中国攻めで戦功をたて四国平定では秀吉の代理をつとめ,その功によって大和郡山(こおりやま)城主となる。のち権(ごんの)大納言となり,大和大納言と称された。天正(てんしょう)19年1月22日死去。52歳。尾張(おわり)(愛知県)出身。初名は長秀。通称は小一郎。
【格言など】かけて今日行幸(みゆき)をまつの藤浪のゆかり嬉しき花の色かな(「太閤記」)
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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羽柴秀長 (はしばひでなが)
生年月日:1540年3月2日
安土桃山時代の武将;豊臣秀吉の異母弟
1591年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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