賀島庄(読み)かしまのしよう

日本歴史地名大系 「賀島庄」の解説

賀島庄
かしまのしよう

現在の淀川区加島町辺りにあった庄園。もとは仁和にんな寺の塔頭青蓮しようれん寺の庄園であったが、鎌倉初期の太政大臣西園寺公経が伊予国の所領と交換して西園寺家領になったという(仁和寺諸堂記)。貞応二年(一二二三)三月日の蔵人所牒案(東洋文庫蔵弁官補任裏文書)は、摂津国衙(現東区)市小路いちこうじ市などとともに当庄内の美六みろく市に対する国司・領家・地頭らの濫妨を禁じている。この美六市は、摂津国における市場の成立を示す最も早い史料の一つであり、当庄の地域が商業活動の重要な中心地であったことを物語るものである。ただしこの時期に、賀島庄が青蓮寺領であったか、西園寺家領になっていたかは不明。その後しばらく関係史料がみえないが、南北朝期に入り、建武三年(一三三六)六月、京都を舞台に、比叡山にこもる後醍醐天皇方の新田義貞勢と足利尊氏勢の死闘が繰広げられているとき、「真木・葛葉・禁野・片野・宇殿・賀島・神崎・天王寺・賀茂・三日ノ原ノ者共」が馳せ集まって「川尻ノ道ヲ差塞」いだことが「太平記」巻一七(山門牒送南都事)にみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報