萱島庄(読み)かやしまのしよう

日本歴史地名大系 「萱島庄」の解説

萱島庄
かやしまのしよう

吉野川の河口部左岸、現在の徳島市川内かわうち町と旧応神おうじん村域、および北島きたじま町にかけての地域に比定される山城石清水いわしみず八幡宮領庄園。栢島庄とも記された。庄内地名として吉成よしなり(現徳島市)北島郷(現北島町)別宮べつく(現徳島市)などが文書中にみえる。奈良春日社領富田とみだ(現徳島市)と同様に吉野川河口部の広大な三角洲地帯が開発されて成立した庄園であった。

康治三年(一一四四)正月二四日の法印某下文案(葛原文書)に「萱島荘」とあり、当庄は東西二庄に分れ、西庄下司職に宗政が補任されている。ただし同文書は様式に若干問題があり、検討を要する。保元三年(一一五八)一二月三日の官宣旨(石清水文書)石清水八幡宮寺領の一つとして阿波国「萱島庄」がみえ、同年一一月一一日の宮寺別当兼極楽寺院主法印勝清の訴えを認め、石清水八幡宮および極楽寺領の庄園の領家・預所・下司・公文などの掠領を停止するよう命じている。なお石清水祀官俗官并所司系図(石清水八幡宮記録)の冒頭に「海諸人」に対して「萱島庄主也」の注記があり、かなり古い時期から当庄が石清水八幡宮領であったという伝承があったようである。正治二年(一二〇〇)正月日の藤原為教譲状(紀伊隅田家文書)によれば、藤原為教は先祖相伝の職である萱島庄の下司ならびに惣公文職を在京中に重代でない者に奪われてしまい長い間訴訟してきたが、老年のため病気がちになったため、給田雑免や武松・枝恒等名を含めた下司・公文両職を藤原能村に譲与している。そして同年二月一〇日能村は萱島庄の西庄下司職に補任された(「石清水八幡宮寺政所下文」同文書など)。同年二月一一日の石清水八幡宮寺公文所下文(同文書)によれば、別当道清は妻の熊野詣に際し、隅田すだ(現和歌山県橋本市)の下司俊村にその雑事等の調進を命じたが、このうち白米は萱島西庄下司能村の負担であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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