日本歴史地名大系 「淀川区」の解説 淀川区よどがわく 大阪府:大阪市淀川区面積:一二・七一平方キロ市内北部を南西流する新淀川と神崎川に挟まれた区で、東は東淀川区、西は西淀川区、南は大淀区、北は東から吹田(すいた)・豊中・兵庫県尼崎(あまがさき)の三市。東淀川区・西淀川区との境を東海道本線が通り、区中央部を同新幹線がほぼ東西に通り加島(かしま)で北に折れ、神崎川を越える。東端、東海道本線と新幹線の交差部に新大阪駅がある。また、東端の東海道本線に並行して地下鉄御堂筋線が通り、大阪梅田(うめだ)(現北区)より十三(じゆうそう)大橋を越えて当区に至った阪急電車は十三駅で京都線・宝塚線・神戸線の三線に分れる。主要道路には地下鉄に沿う新御堂筋(しんみどうすじ)線、区西端の東海道本線に沿って西淀川区から加島を縦断し神崎川を越える阪神高速大阪―池田線などがある。〔原始〕縄文時代前期、上町(うえまち)台地の東方には縄文海進による河内湾が広がり、当区は台地北方の湾の入口付近の海域であった。縄文晩期―弥生時代前半にかけ、上町台地の先端から北へ砂洲(天満砂堆)が延びて大阪湾から海水の流入が減少し河内湾は潟となり、弥生時代後期―古墳時代には淡水化して河内湖となった。この頃当区は天満(てんま)砂堆北部西岸付近に位置している。古墳時代中期以降、淀川の下流には三角洲が発達し、長柄(ながら)川(中津川)の新水路もできている。やがて海退による海面の低下で当区付近にいくつかの島ができ、しだいに陸地化していったと考えられている。〔古代〕当区の十三や十八条(じゆうはちじよう)の地名は条里制の名残といわれ、西成(にしなり)区の飛田(とびた)を摂津国西成郡の一条として北に六町ごとに区画すると十三は一三番目、十八条は一八番目にあたる。また「和名抄」にみえる西成郡槻本(つきのもと)郷を塚本(つかもと)辺りに比定する説がある。延暦四年(七八五)淀川と三国(みくに)川(神崎川)が水路で結ばれ、都と西国を結ぶ交通路となり、河口に近い当区の加島は港津集落として発展した。とくに平安時代中期以降、紀伊の熊野や高野、住吉(現住吉区)、四天王寺(現天王寺区)などの社寺参詣や庄園制の発達による人や物資の流通が盛んになると、加島は対岸の神崎(現尼崎市)や上流の江口(えぐち)(現東淀川区)と並ぶ遊興の地となった。また加島には鍛冶が多く、この伝統は中世まで続き、さらに近世この地に置かれた鋳銭座に受継がれた。「日本後紀」弘仁三年(八一二)六月三日条によれば長柄川に長柄橋が架かっていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「淀川区」の意味・わかりやすい解説 淀川〔区〕よどがわ 大阪市北部,新淀川右岸の区。 1974年東淀川区から分離して新設。南は淀川,北は神崎川,東と西はほぼ JR東海道本線に囲まれる淀川沖積地で,かつては水田地帯であったが 1910年阪急電鉄宝塚線,さらに同京都線,神戸線などが通じてから都市化,工業化が進んだ。神崎川沿いに製薬をはじめ塗料,肥料などの化学工業,電気器具,機械,金属,食品工業などが盛んで,大阪北部工業地域の中核をなす。十三 (じゅうそう) は阪急電鉄各線の分岐点で,駅前一帯は繁華街。東海道新幹線新大阪駅の開設に伴い,周辺は新しいビジネス街として発展。十三駅の北西側に新大阪繊維卸売団地 (センイシティー) が,旧梅田繊維問屋街から移転。一帯は新しい副都心となりつつある。十三本町に武田科学振興財団杏雨書屋があり,国宝の書3点を所蔵する。面積 12.64km2(境界未定)。人口 18万3444(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by