賀陽郡(読み)かやぐん

日本歴史地名大系 「賀陽郡」の解説

賀陽郡
かやぐん

和名抄」諸本は「賀夜郡」と記し、高山寺本に「国用賀陽」とある。諸本とも訓を欠く。「拾芥抄」に「カヤ」の訓がある。郡名の用字は「続日本紀」天平神護元年(七六五)六月一日条に「賀陽郡」とあり、以後、中世には賀陽・加陽・加夜と表記され、近世には賀陽と表記されることが多く「カヨウ」と読まれた。近代の訓は「カヨウ」(内務省地理局編纂「地名索引」)。郡名の初見史料は藤原宮跡から出土した「加夜評□□□」とある木簡である。「評」は令制下の「郡」のことで、大宝令の施行によってそれまでの「評」字を「郡」と改めるに至った。元来の「賀夜」を「賀陽」と表記するに至ったのは、「続日本紀」和銅六年(七一三)五月二三日条の制によって、地名を好字で表記することになったためであろう。古代には東は備前国津高つだか郡、南は東から都宇つう郡・窪屋くぼや郡、西にかけては下道郡、北は英賀あが郡と接した。現在の総社市の北部から東部、岡山市の北西部、高梁たかはし市の大部分、上房じようぼう賀陽かよう町・有漢うかん町、御津みつ加茂川かもがわ町の一部に及んでいた。

「和名抄」は庭妹にわせ板倉いたくら足守あしもり大井おおい阿曾あぞ服部はつとり八部やたべ生石おうし刑部おさかべ日羽ひわ多気たけ巨勢こせ・有漢・大石おおしの一四郷とするが、大石郷は高山寺本になく、東急本の訓「於保之」からも生石郷の重出とみるべきで、元来は一三郷からなり、令制の区分によると上郡であった。「和名抄」は備中国府が当郡に所在したとするが、総社市金井戸かないどに国府関係の地名が遺存し、遺構は検出されていないが、同地付近に国府の置かれたことはほぼ確実である。「延喜式」神名帳に古郡ふるこおり野俣のまたつつみ吉備津彦きびつひこの四社が載り、吉備津彦神社は名神大社とされている。当郡の西北部は中世に分郡され、「拾芥抄」では多気・巨勢・有漢の三郷を上方じようぼう(のち上房)郡とする。

郡内の主要遺跡のうち佐古田堂山さこたどうやま古墳(岡山市平山)は全長約一五〇メートルの前方後円墳で、これと関連すると思われるものに北東約七五〇メートルのところに位置する径約一〇〇メートルの大円墳である小盛山こもりやま古墳がある。随庵ずいあん古墳(総社市西阿曾)は全長約四〇メートルの帆立貝式前方後円墳であるが、豊富な武具や鉄器の副葬で知られる。総社市奥坂おくさかにはいわゆる朝鮮式山城として著名なじよう跡がある。城内から出土した土器によって七世紀末から八世紀初頭にかけて築造されたと考えられ、古代吉備の歴史の一つのモニュメントとしての位置を占める。

〔古代〕

当郡の伝統的有力氏族として賀夜(賀陽)氏がいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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