精選版 日本国語大辞典 「木簡」の意味・読み・例文・類語
もっ‐かん モク‥【木簡】
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文字を墨書した短冊(たんざく)状の木片。木片を書写材料とする事例は、西欧では古代ローマなどでもみられるが、紙の発明される以前の古代中国では竹簡(ちっかん)や木簡が生み出され、やがてそれが日本にも影響を与えた。日本では7世紀の飛鳥(あすか)時代以降、近世に至るまで書写材料として紙と併用されるが、とりわけ文献史料が限られている古代(7世紀~10世紀ころ)にあっては、その資料的価値が重視されている。
[三上喜孝 2018年9月19日]
日本における木簡は、奈良・東大寺の正倉院宝物のなかに伝世されたものが古くから知られ、最初の出土例としては1928年(昭和3)の三重県柚井(ゆい)遺跡や1930年の秋田県払田柵(ほったのさく)跡があげられる。ただこの段階では、出土点数もわずかであり、まだ木簡を古代の資料として十分に認識するまでには至っていなかった。
1961年(昭和36)に奈良県の平城(へいじょう)宮跡で41点のまとまった数の木簡が発見されたことにより、木簡についての本格的な調査研究が始まった。これにより木簡が古代の資料であることが明確に認識されるようになる。その後、平城宮や藤原宮といった宮都(きゅうと)の発掘調査が進むにつれ、木簡の出土数も増加する。宮都と類似の性格をもつ遺跡である福岡県・大宰(だざい)府跡や、宮城県・多賀(たが)城跡などの地方官衙(かんが)(地方政治の拠点)からも木簡が発見されるようになり、木簡の出土が全国にわたるようになる。こうした状況を踏まえ、1979年には木簡学会が設立され、毎年12月に開かれる研究集会で全国の木簡の出土情報が集められるようになった。さらに雑誌「木簡研究」も年に1回発行されるなど、情報は集積され、木簡の出土件数は飛躍的に増加した。
特筆すべき発見は、1988年から1989年(平成1)にかけて平城京跡で発見された「長屋王家木簡」および「二条大路(おおじ)木簡」である。両者をあわせると出土点数は10万点を超え、それまでに全国で出土した木簡の点数に匹敵するものであった。その後も、木簡の出土は絶えることなく、2018年(平成30)時点では出土点数が38万点を超える。
これまでのところ、日本における木簡の最古の事例は7世紀前半ころのものである。7世紀という時代は、日本の古代国家がしだいに中央集権的な官僚制国家を目ざした時期で、7世紀後半には中国に倣った律令体制が築かれた。こうした官僚制国家に不可欠なのは文字による記録や命令である。木簡の使用は、国家体制の整備と不可分の関係にあるとみてよい。実際、日本の古代木簡は8世紀~9世紀にもっとも多く使われ、10世紀以降はその利用が少なくなる。律令国家の盛衰と呼応しているのである。
古代でなぜ木簡が使われたのか。これについては紙の普及との関係から説明されることが多い。すなわち、紙の普及していなかった古代では紙のかわりに木片に文字が書かれ、紙の普及とともに木簡はその使命を終えたのだ、と。たしかにそういう側面もあるだろう。だが、紙と比べて木は堅牢であり、情報の内容や分量にあわせて形状や大きさを加工できるという利点がある。表面を削ることで再利用もできる。木簡はけっして紙の代替物だったわけではなく、当時としてはきわめて合理的な書写材料であったのである。
木簡は発掘調査によって地中からみつかる。ただしどこからでもみつかるというわけではない。これまでに出土した事例を集計してみると、平城京(8世紀)を筆頭に、藤原京(7世紀後半)、長岡京(8世紀末)、平安京(8世紀末~)といった都城(とじょう)がもっとも多い。つまり当然のことながら政治の中心となる場でみつかる。しかし最近では都城だけではなく、全国の地方官衙と思われるところからも出土するようになった。これは、地方においても文書行政が行われていたことの証拠である。
次に出土する遺構に注目すると、河川跡や溝、土坑から出土することが多い。これは、木製品である木簡が、豊富な地下水で守られ、腐食を免れてきたことにより、奇跡的に失われずに残った結果である。同時にこれらの遺構はいわば当時のごみ捨て場であり、木簡がその使命を終えて廃棄されたことを意味する。われわれは、使用済みとなりごみとして捨てられた木簡と奇跡的に出会うことにより、古代社会の実像を知ることができるのである。
[三上喜孝 2018年9月19日]
木簡は、さまざまな機能や用途に応じて、いくつかに分類される。特徴的な形態としては、(1)短冊型、(2)短冊型の材の上・下両端あるいは一端に切り込みを入れたもの、(3)材の一端を剣先(けんさき)形にとがらせたもの、などがあり、その他、木製品に墨書したものや、木簡の表面から削り取られた薄片(削屑)に墨書されたものも、木簡である。
記載内容は大きく分けて、(a)文書木簡、(b)付札(つけふだ)、(c)その他、がある。「文書木簡」はさらに、差出人と宛先が明確な狭義の「文書」と、物品の出納などを記録した「記録(帳簿)」に分けることができる。「付札」は、税などを貢進する際に付けられる「貢進物荷札」と、物品管理用に物に付けられる「物品付札」とに分けることができる。「その他」には、木片に典籍の一部を書き写したり、同じ文字を繰り返し書いて文字の練習をしたとみられる「習書」や、まじないの文字や記号を書いた「呪符(じゅふ)」といった木簡が含まれる。
木簡の形状は、内容に応じてつくられているとみてよい。「文書木簡」は(1)の形状がほとんどで、「付札」は(2)(3)の形状に対応する。「付札」は、紐(ひも)を用いて物品に装着する必要があるため、短冊型の材に切り込みを入れ、紐を引っ掛けやすくしたり、材の一端を剣先形にとがらせ、紐に木簡を差し込みやすくするのである。文書の場合はそのような加工は必要なく、むしろ情報を正確に相手に伝える(あるいは記録にとどめる)ことが重要であるために、規格性の高い短冊型の木簡がつくられるのである。
木簡は、出土した遺構の条件によって、多くの場合、不完全な形であったり、墨の残りがあまりよくなかったりするが、木簡の形状と内容が対応しているおかげで、これが文書木簡なのか、あるいは付札木簡なのか、といった推定が可能となる。これにより、木簡の内容をある程度復原することができる。木簡研究は、長年培ってきた形状や機能の分類作業の上に成り立っているといえよう。
[三上喜孝 2018年9月19日]
木簡研究の初期の段階においては、木簡は文献史料を補完するための資料として位置づけられる傾向が強かった。たとえば、最古の歴史書『日本書紀』(8世紀成立)のなかの有名な「大化改新詔(みことのり)」(646年(大化2))にみえる「郡司」という用語の存在から、これを後世の潤色とみるか否かをめぐる「郡評論争」が1950年代に巻き起こったが、これに決着をつけたのが1966年以降に発見された藤原宮出土木簡であった。藤原宮出土の荷札木簡をみると、701年(大宝1)の大宝律令制定を境に、行政単位の「こおり」の表記が「評」から「郡」へと変化していることが動かぬ証拠となった。木簡が同時代資料としてきわめて威力をもつものであることがこの論争により明らかにされたのである。
だが近年では、木簡を単なる文献史料の補完の役割を果たすだけの資料とのみとらえず、木簡そのものを素材とした研究が行われるようになってきている。
まずあげられるのは、平城京などの都城における、貴族社会や都市生活の解明に木簡が大きな役割を果たした点である。
8世紀の律令国家は租・庸・調などの税体系を整え、全国各地から租税としてさまざまな物品を貢納させたが、その租税の実態は、平城宮から出土する荷札木簡により知ることができる。荷札木簡には、当時の行政区画である郡、郷、里名と戸主の名、負担する本人の名と、物品名、数量、さらには貢進した年月などが記される。これにより、各地からさまざまな特産物が運ばれ、都市生活の需要を支えていたことがわかり、同時にこれは、列島各地の地域性をうかがい知る資料としても貴重である。
さらに1988~1989年に発見された長屋王家木簡は、当時の都の貴族の生活を生々しく記していた。長屋王邸宅では、犬や鶴や馬の飼育が行われたり、奈良市東方の山中にある「氷室(ひむろ)」から夏に氷が取り寄せられたり、お抱えの楽人や手工業者、写経生がいるなど、その優雅な暮らしぶりがわかった。
1990年代以降、全国各地の地方官衙遺跡から数多くの木簡が出土するようになり、地方社会でも7世紀以降、文字による行政が行われていたことがわかった。なかでも注目されたのは、「郡符木簡」とよばれるものである。これは地方豪族である郡司が、配下の民衆に対して物や人の召喚、労働力の徴発などを命じた文書木簡で、「郡符す(郡司が命ずる)」という書き出しで始まる。たとえば、古代陸奥(むつ)国磐城(いわき)郡家の関連遺跡である福島県いわき市の荒田目(あっため)条里遺跡からは郡符木簡が2点出土したが、そのうちの1点は、郡司が配下の村の有力女性に対して、郡司の田の田植えの労働力として36人を連れてくるように命じたもので、2尺(約60センチメートル)という長大な木簡に、36人の名前と郡司の署名を記していた。36人の労働力が1枚の木簡によって集められたのである。
各地からみつかる「郡符木簡」の特徴は、通常の木簡よりはるかに大きい2尺の長大な木札に書かれること(通常の木簡は1尺程度)、そして、書かれる文字そのものも大ぶりであるという点である。こうした特徴は、「郡符木簡」が単に文書による行政命令という性格のものではなく、文字そのもののもつ「力」を利用して、地方豪族が民衆を支配していたことを示している。当時の民衆のすべてが文字を読むことができたわけではなかった。地方の有力豪族たちは、文字を書いた木簡を誇張し、文字を使いこなす技術そのものを民衆に見せつけることにより、彼らを支配したのである。
郡司が民衆に命じた文書木簡の最たるものが、石川県津幡(つばた)町加茂遺跡から出土した嘉祥2年(849)の年紀をもつと推定される「加賀郡牓示(ぼうじ)札」である。これも「郡符」の書き出しで始まるが、縦23.7センチメートル、横61.3センチメートルのヒノキ材の板に、全部で350字以上の文字が難解な漢文で書かれており、その形式はまるで紙の文書をそのまま写したかのようである。固定するためと思われる切り込みや穴もあいており、本来は不特定多数の民衆の目に触れるように掲示されていたものとみられる。内容は、郡司が民衆に対して、農業労働に関する8箇条の命令を出したものであり、江戸時代の「お触書(ふれがき)」に匹敵するような内容である。
文章中にはこの命令を「路頭に牓示」し、郡の役人が「口示」せよ、とあるので、往来のにぎやかな場所に掲示して、郡の役人が民衆に対して口頭で命令の内容を説明したのであろう。いわば近世の「高札」の起源である。律令国家の命令がどのような形で地方社会の末端にまで広まったのか。この木簡はその実態をストレートに教えてくれる。
木簡が古代社会研究にもたらした役割は、これだけにとどまらない。たとえば、東北地方や北陸地方の平安時代の遺跡から出土したいわゆる「種子札(たねふだ)」(種籾(たねもみ)俵に稲の品種名を記した木の札を付けたもの)は、日本の農業史を書きかえる大きな発見であった。「畔越(あぜこし)」(山形県遊佐(ゆざ)町上高田遺跡)、「白和世(しろわせ)」「足張(すくはり)」「長非子(ながひこ)」(福島県会津若松市矢玉遺跡)、「地蔵子(ちくらこ)」「古僧子(こほうしこ)」(福島県いわき市荒田目条里遺跡)といった品種名は、近世の農書にみえる品種名と共通し、古代の稲がこれまで考えられていた以上に多様であり、その品種名が連綿と後世まで受け継がれてきたことが明らかになったのである。日本の古代社会の農業技術の実態に迫ることのできる資料としても、木簡は計り知れない価値をもつ。
木簡をめぐる近年の研究状況は、木簡が「郡評論争」を決着させるための資料として評価された時代からみれば隔世の感がある。木簡が古代社会のありとあらゆる場面で使用されていたおかげで、古代社会のさまざまな実態を解明することができる素材としてきわめて有効なのである。
[三上喜孝 2018年9月19日]
さらに木簡研究は、新たな段階を迎えている。
第一に、木簡データのデジタル化である。奈良文化財研究所が進めてきた「木簡データベース」はこの先駆けといえよう。ここには、これまで「木簡研究」等で公表されている木簡に関して、出土遺跡名、調査主体、木簡本文、型式番号、出典など、1点の木簡に関するあらゆる情報がデジタル化されている。
もう一つは、同じく奈良文化財研究所で進められている「木簡画像データベース『木簡字典』」である。ある文字について、これまで出土した木簡ではどのような字形があるかを検索するためのシステムである。近世古文書を解読するための「くずし字辞典」はよく知られているが、これはその「古代木簡」版である。この二つのデータベースは2018年(平成30)に統合され、「木簡庫」という名で公開された。
第二に、木簡研究の国際化である。木簡が中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった情報伝達技術である以上、日本の木簡を中国や朝鮮半島のものと比較研究することはきわめて当然の作業である。しかしこの方面の研究はあまり進んでこなかった。それは、日本にもっとも直接的な影響を与えたと思われる朝鮮半島の木簡について、ほとんど研究が進んでいなかったからである。
ところが2000年代以降、各地からの木簡の発見に伴い、韓国で出土木簡の研究が急速に進んできた。さらにこれらの木簡が鮮明な写真図版で公開されるようになり、これにより、韓国出土木簡と日本古代木簡との比較がようやく可能になったのである。韓国出土木簡のなかには、日本の木簡よりも約1世紀古い6世紀代の木簡が数多く確認されており、しかもそれらが日本の木簡ときわめてよく似ていることも明らかになってきた。たとえば、韓国南部・咸安(かんあん)の城山(じょうさん)山城(古代新羅(しらぎ)の山城)から大量の荷札木簡が出土したが、日本で出土する木簡ときわめてよく似たタイプのものである。今後、韓国でこれまで以上に木簡研究が進めば、中国―朝鮮―日本を結ぶ木簡の系譜についても明らかになるであろう。
[三上喜孝 2018年9月19日]
『狩野久編『日本の美術 木簡』160号(1979・至文堂)』▽『木簡学会編『日本古代木簡選』(1990・岩波書店)』▽『奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸宅と木簡』(1991・吉川弘文館)』▽『沖森卓也・佐藤信編『上代木簡集成』(1994・おうふう)』▽『平野邦雄・鈴木靖民編『木簡が語る古代史』上下(1996、2001・吉川弘文館)』▽『大庭脩編『木簡――古代からのメッセージ』(1998・大修館書店)』▽『平川南監修、財団法人石川県埋蔵文化財センター編『発見!古代のお触れ書き――石川県加茂遺跡出土加賀郡牓示札』(2001・大修館書店)』▽『木簡学会編『日本古代木簡集成』(2003・東京大学出版会)』▽『平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本』全5巻(2005・吉川弘文館)』▽『鬼頭清明著『木簡の社会史』(講談社学術文庫)』▽『東野治之著『木簡が語る日本の古代』(岩波新書)』▽『市大樹著『飛鳥の木簡――古代史の新たな解明』(中公新書)』▽『木簡学会編『木簡から古代がみえる』(岩波新書)』
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文字を記した木の札。墨書によるものが多い。古代に,木の材質をいかしながら紙の文書とともに情報伝達に広く用いた。内容は,文書(狭義の文書や記録・帳簿),付札(物品付札・貢進物荷札),習書などにわけられる。形態は短冊(たんざく)形を基本として,用途によって上下両端の左右に切り欠きを入れたり,下端を尖らせたものがあり,長さ20~30cm,幅3cm程度のものが多い。都城の藤原宮跡・平城宮跡や各地の地方官衙(かんが)遺跡などから,すでに十数万点が出土し,官衙の実務・生活の実態を示す第1次資料として重要な古代史料。中世以降のものも呪符・付札をはじめ各地の遺跡から出土し,木簡は固有の用途・機能をもったものとして長く使われた。
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出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ところが周代末期ごろから竹や木を短冊型に切りそろえたものを書写の材料として使用するようになった。これが〈竹簡〉であり〈木簡〉である。現在,漢代の竹簡,木簡が中国本土はもとより新疆ウイグル自治区などの辺境で多数発見されているが,漢代になると白絹を書写の材料とすることが盛行した。…
…ところが20世紀に入って,膨大な古文書群があいついで発見された。すなわち(1)殷代で占いに使われた甲骨文,(2)漢・晋の木簡,とくに西北辺境の居延から出土した居延漢簡,(3)4~11世紀初の敦煌文書および西域文書,なかでも6~8世紀のトゥルファン文書,(4)清朝宮廷に保管されていた公文書類,いわゆる明清檔案(とうあん)である。いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。…
…これらはあまり加工を施さない自然石を利用して,篆書または篆書から隷書に移る過渡的な古隷によって書かれている。また簡牘(かんとく)(木簡・竹簡),帛書も近年ますます多く発掘されており,前1世紀ごろの隷書にすでに波磔(はたく)の筆法が見られ,これと前後して章草の筆法の明らかに認められるものがある。しかしその大半は,篆書から隷書に移る一種の雑然とした書体によって占められている。…
※「木簡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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