文字を墨書した短冊(たんざく)状の木片。木片を書写材料とする事例は、西欧では古代ローマなどでもみられるが、紙の発明される以前の古代中国では竹簡(ちっかん)や木簡が生み出され、やがてそれが日本にも影響を与えた。日本では7世紀の飛鳥(あすか)時代以降、近世に至るまで書写材料として紙と併用されるが、とりわけ文献史料が限られている古代(7世紀~10世紀ころ)にあっては、その資料的価値が重視されている。
[三上喜孝 2018年9月19日]
日本における木簡は、奈良・東大寺の正倉院宝物のなかに伝世されたものが古くから知られ、最初の出土例としては1928年(昭和3)の三重県柚井(ゆい)遺跡や1930年の秋田県払田柵(ほったのさく)跡があげられる。ただこの段階では、出土点数もわずかであり、まだ木簡を古代の資料として十分に認識するまでには至っていなかった。
1961年(昭和36)に奈良県の平城(へいじょう)宮跡で41点のまとまった数の木簡が発見されたことにより、木簡についての本格的な調査研究が始まった。これにより木簡が古代の資料であることが明確に認識されるようになる。その後、平城宮や藤原宮といった宮都(きゅうと)の発掘調査が進むにつれ、木簡の出土数も増加する。宮都と類似の性格をもつ遺跡である福岡県・大宰(だざい)府跡や、宮城県・多賀(たが)城跡などの地方官衙(かんが)(地方政治の拠点)からも木簡が発見されるようになり、木簡の出土が全国にわたるようになる。こうした状況を踏まえ、1979年には木簡学会が設立され、毎年12月に開かれる研究集会で全国の木簡の出土情報が集められるようになった。さらに雑誌「木簡研究」も年に1回発行されるなど、情報は集積され、木簡の出土件数は飛躍的に増加した。
特筆すべき発見は、1988年から1989年(平成1)にかけて平城京跡で発見された「長屋王家木簡」および「二条大路(おおじ)木簡」である。両者をあわせると出土点数は10万点を超え、それまでに全国で出土した木簡の点数に匹敵するものであった。その後も、木簡の出土は絶えることなく、2018年(平成30)時点では出土点数が38万点を超える。
これまでのところ、日本における木簡の最古の事例は7世紀前半ころのものである。7世紀という時代は、日本の古代国家がしだいに中央集権的な官僚制国家を目ざした時期で、7世紀後半には中国に倣った律令体制が築かれた。こうした官僚制国家に不可欠なのは文字による記録や命令である。木簡の使用は、国家体制の整備と不可分の関係にあるとみてよい。実際、日本の古代木簡は8世紀~9世紀にもっとも多く使われ、10世紀以降はその利用が少なくなる。律令国家の盛衰と呼応しているのである。
古代でなぜ木簡が使われたのか。これについては紙の普及との関係から説明されることが多い。すなわち、紙の普及していなかった古代では紙のかわりに木片に文字が書かれ、紙の普及とともに木簡はその使命を終えたのだ、と。たしかにそういう側面もあるだろう。だが、紙と比べて木は堅牢であり、情報の内容や分量にあわせて形状や大きさを加工できるという利点がある。表面を削ることで再利用もできる。木簡はけっして紙の代替物だったわけではなく、当時としてはきわめて合理的な書写材料であったのである。
木簡は発掘調査によって地中からみつかる。ただしどこからでもみつかるというわけではない。これまでに出土した事例を集計してみると、平城京(8世紀)を筆頭に、藤原京(7世紀後半)、長岡京(8世紀末)、平安京(8世紀末~)といった都城(とじょう)がもっとも多い。つまり当然のことながら政治の中心となる場でみつかる。しかし最近では都城だけではなく、全国の地方官衙と思われるところからも出土するようになった。これは、地方においても文書行政が行われていたことの証拠である。
次に出土する遺構に注目すると、河川跡や溝、土坑から出土することが多い。これは、木製品である木簡が、豊富な地下水で守られ、腐食を免れてきたことにより、奇跡的に失われずに残った結果である。同時にこれらの遺構はいわば当時のごみ捨て場であり、木簡がその使命を終えて廃棄されたことを意味する。われわれは、使用済みとなりごみとして捨てられた木簡と奇跡的に出会うことにより、古代社会の実像を知ることができるのである。
[三上喜孝 2018年9月19日]
木簡は、さまざまな機能や用途に応じて、いくつかに分類される。特徴的な形態としては、(1)短冊型、(2)短冊型の材の上・下両端あるいは一端に切り込みを入れたもの、(3)材の一端を剣先(けんさき)形にとがらせたもの、などがあり、その他、木製品に墨書したものや、木簡の表面から削り取られた薄片(削屑)に墨書されたものも、木簡である。
記載内容は大きく分けて、(a)文書木簡、(b)付札(つけふだ)、(c)その他、がある。「文書木簡」はさらに、差出人と宛先が明確な狭義の「文書」と、物品の出納などを記録した「記録(帳簿)」に分けることができる。「付札」は、税などを貢進する際に付けられる「貢進物荷札」と、物品管理用に物に付けられる「物品付札」とに分けることができる。「その他」には、木片に典籍の一部を書き写したり、同じ文字を繰り返し書いて文字の練習をしたとみられる「習書」や、まじないの文字や記号を書いた「呪符(じゅふ)」といった木簡が含まれる。
木簡の形状は、内容に応じてつくられているとみてよい。「文書木簡」は(1)の形状がほとんどで、「付札」は(2)(3)の形状に対応する。「付札」は、紐(ひも)を用いて物品に装着する必要があるため、短冊型の材に切り込みを入れ、紐を引っ掛けやすくしたり、材の一端を剣先形にとがらせ、紐に木簡を差し込みやすくするのである。文書の場合はそのような加工は必要なく、むしろ情報を正確に相手に伝える(あるいは記録にとどめる)ことが重要であるために、規格性の高い短冊型の木簡がつくられるのである。
木簡は、出土した遺構の条件によって、多くの場合、不完全な形であったり、墨の残りがあまりよくなかったりするが、木簡の形状と内容が対応しているおかげで、これが文書木簡なのか、あるいは付札木簡なのか、といった推定が可能となる。これにより、木簡の内容をある程度復原することができる。木簡研究は、長年培ってきた形状や機能の分類作業の上に成り立っているといえよう。
[三上喜孝 2018年9月19日]
木簡研究の初期の段階においては、木簡は文献史料を補完するための資料として位置づけられる傾向が強かった。たとえば、最古の歴史書『日本書紀』(8世紀成立)のなかの有名な「大化改新詔(みことのり)」(646年(大化2))にみえる「郡司」という用語の存在から、これを後世の潤色とみるか否かをめぐる「郡評論争」が1950年代に巻き起こったが、これに決着をつけたのが1966年以降に発見された藤原宮出土木簡であった。藤原宮出土の荷札木簡をみると、701年(大宝1)の大宝律令制定を境に、行政単位の「こおり」の表記が「評」から「郡」へと変化していることが動かぬ証拠となった。木簡が同時代資料としてきわめて威力をもつものであることがこの論争により明らかにされたのである。
だが近年では、木簡を単なる文献史料の補完の役割を果たすだけの資料とのみとらえず、木簡そのものを素材とした研究が行われるようになってきている。
まずあげられるのは、平城京などの都城における、貴族社会や都市生活の解明に木簡が大きな役割を果たした点である。
8世紀の律令国家は租・庸・調などの税体系を整え、全国各地から租税としてさまざまな物品を貢納させたが、その租税の実態は、平城宮から出土する荷札木簡により知ることができる。荷札木簡には、当時の行政区画である郡、郷、里名と戸主の名、負担する本人の名と、物品名、数量、さらには貢進した年月などが記される。これにより、各地からさまざまな特産物が運ばれ、都市生活の需要を支えていたことがわかり、同時にこれは、列島各地の地域性をうかがい知る資料としても貴重である。
さらに1988~1989年に発見された長屋王家木簡は、当時の都の貴族の生活を生々しく記していた。長屋王邸宅では、犬や鶴や馬の飼育が行われたり、奈良市東方の山中にある「氷室(ひむろ)」から夏に氷が取り寄せられたり、お抱えの楽人や手工業者、写経生がいるなど、その優雅な暮らしぶりがわかった。
1990年代以降、全国各地の地方官衙遺跡から数多くの木簡が出土するようになり、地方社会でも7世紀以降、文字による行政が行われていたことがわかった。なかでも注目されたのは、「郡符木簡」とよばれるものである。これは地方豪族である郡司が、配下の民衆に対して物や人の召喚、労働力の徴発などを命じた文書木簡で、「郡符す(郡司が命ずる)」という書き出しで始まる。たとえば、古代陸奥(むつ)国磐城(いわき)郡家の関連遺跡である福島県いわき市の荒田目(あっため)条里遺跡からは郡符木簡が2点出土したが、そのうちの1点は、郡司が配下の村の有力女性に対して、郡司の田の田植えの労働力として36人を連れてくるように命じたもので、2尺(約60センチメートル)という長大な木簡に、36人の名前と郡司の署名を記していた。36人の労働力が1枚の木簡によって集められたのである。
各地からみつかる「郡符木簡」の特徴は、通常の木簡よりはるかに大きい2尺の長大な木札に書かれること(通常の木簡は1尺程度)、そして、書かれる文字そのものも大ぶりであるという点である。こうした特徴は、「郡符木簡」が単に文書による行政命令という性格のものではなく、文字そのもののもつ「力」を利用して、地方豪族が民衆を支配していたことを示している。当時の民衆のすべてが文字を読むことができたわけではなかった。地方の有力豪族たちは、文字を書いた木簡を誇張し、文字を使いこなす技術そのものを民衆に見せつけることにより、彼らを支配したのである。
郡司が民衆に命じた文書木簡の最たるものが、石川県津幡(つばた)町加茂遺跡から出土した嘉祥2年(849)の年紀をもつと推定される「加賀郡牓示(ぼうじ)札」である。これも「郡符」の書き出しで始まるが、縦23.7センチメートル、横61.3センチメートルのヒノキ材の板に、全部で350字以上の文字が難解な漢文で書かれており、その形式はまるで紙の文書をそのまま写したかのようである。固定するためと思われる切り込みや穴もあいており、本来は不特定多数の民衆の目に触れるように掲示されていたものとみられる。内容は、郡司が民衆に対して、農業労働に関する8箇条の命令を出したものであり、江戸時代の「お触書(ふれがき)」に匹敵するような内容である。
文章中にはこの命令を「路頭に牓示」し、郡の役人が「口示」せよ、とあるので、往来のにぎやかな場所に掲示して、郡の役人が民衆に対して口頭で命令の内容を説明したのであろう。いわば近世の「高札」の起源である。律令国家の命令がどのような形で地方社会の末端にまで広まったのか。この木簡はその実態をストレートに教えてくれる。
木簡が古代社会研究にもたらした役割は、これだけにとどまらない。たとえば、東北地方や北陸地方の平安時代の遺跡から出土したいわゆる「種子札(たねふだ)」(種籾(たねもみ)俵に稲の品種名を記した木の札を付けたもの)は、日本の農業史を書きかえる大きな発見であった。「畔越(あぜこし)」(山形県遊佐(ゆざ)町上高田遺跡)、「白和世(しろわせ)」「足張(すくはり)」「長非子(ながひこ)」(福島県会津若松市矢玉遺跡)、「地蔵子(ちくらこ)」「古僧子(こほうしこ)」(福島県いわき市荒田目条里遺跡)といった品種名は、近世の農書にみえる品種名と共通し、古代の稲がこれまで考えられていた以上に多様であり、その品種名が連綿と後世まで受け継がれてきたことが明らかになったのである。日本の古代社会の農業技術の実態に迫ることのできる資料としても、木簡は計り知れない価値をもつ。
木簡をめぐる近年の研究状況は、木簡が「郡評論争」を決着させるための資料として評価された時代からみれば隔世の感がある。木簡が古代社会のありとあらゆる場面で使用されていたおかげで、古代社会のさまざまな実態を解明することができる素材としてきわめて有効なのである。
[三上喜孝 2018年9月19日]
さらに木簡研究は、新たな段階を迎えている。
第一に、木簡データのデジタル化である。奈良文化財研究所が進めてきた「木簡データベース」はこの先駆けといえよう。ここには、これまで「木簡研究」等で公表されている木簡に関して、出土遺跡名、調査主体、木簡本文、型式番号、出典など、1点の木簡に関するあらゆる情報がデジタル化されている。
もう一つは、同じく奈良文化財研究所で進められている「木簡画像データベース『木簡字典』」である。ある文字について、これまで出土した木簡ではどのような字形があるかを検索するためのシステムである。近世古文書を解読するための「くずし字辞典」はよく知られているが、これはその「古代木簡」版である。この二つのデータベースは2018年(平成30)に統合され、「木簡庫」という名で公開された。
第二に、木簡研究の国際化である。木簡が中国から朝鮮半島を経て日本に伝わった情報伝達技術である以上、日本の木簡を中国や朝鮮半島のものと比較研究することはきわめて当然の作業である。しかしこの方面の研究はあまり進んでこなかった。それは、日本にもっとも直接的な影響を与えたと思われる朝鮮半島の木簡について、ほとんど研究が進んでいなかったからである。
ところが2000年代以降、各地からの木簡の発見に伴い、韓国で出土木簡の研究が急速に進んできた。さらにこれらの木簡が鮮明な写真図版で公開されるようになり、これにより、韓国出土木簡と日本古代木簡との比較がようやく可能になったのである。韓国出土木簡のなかには、日本の木簡よりも約1世紀古い6世紀代の木簡が数多く確認されており、しかもそれらが日本の木簡ときわめてよく似ていることも明らかになってきた。たとえば、韓国南部・咸安(かんあん)の城山(じょうさん)山城(古代新羅(しらぎ)の山城)から大量の荷札木簡が出土したが、日本で出土する木簡ときわめてよく似たタイプのものである。今後、韓国でこれまで以上に木簡研究が進めば、中国―朝鮮―日本を結ぶ木簡の系譜についても明らかになるであろう。
[三上喜孝 2018年9月19日]
『狩野久編『日本の美術 木簡』160号(1979・至文堂)』▽『木簡学会編『日本古代木簡選』(1990・岩波書店)』▽『奈良国立文化財研究所編『平城京長屋王邸宅と木簡』(1991・吉川弘文館)』▽『沖森卓也・佐藤信編『上代木簡集成』(1994・おうふう)』▽『平野邦雄・鈴木靖民編『木簡が語る古代史』上下(1996、2001・吉川弘文館)』▽『大庭脩編『木簡――古代からのメッセージ』(1998・大修館書店)』▽『平川南監修、財団法人石川県埋蔵文化財センター編『発見!古代のお触れ書き――石川県加茂遺跡出土加賀郡牓示札』(2001・大修館書店)』▽『木簡学会編『日本古代木簡集成』(2003・東京大学出版会)』▽『平川南・沖森卓也・栄原永遠男・山中章編『文字と古代日本』全5巻(2005・吉川弘文館)』▽『鬼頭清明著『木簡の社会史』(講談社学術文庫)』▽『東野治之著『木簡が語る日本の古代』(岩波新書)』▽『市大樹著『飛鳥の木簡――古代史の新たな解明』(中公新書)』▽『木簡学会編『木簡から古代がみえる』(岩波新書)』
中国や日本などで,文字を書くために短尺(冊)形に削った木や竹の総称。竹の場合は竹簡ともいう。内容が一簡に書ききれないと何本も使って紐でしばるが,その形を象形して册(冊)と呼ぶ。冊の字は甲骨文にあるから,前1200年以上にさかのぼる古い時代から使用されていたことが知られる。一方,日本では平城京や長岡京址から出土し,9世紀のころですら紙と並存して使われた。現在でも使うが,主として歴史史料としての古代のものを木簡という。なおイギリスのローマ時代の遺跡や韓国の慶州雁鴨池からも出土し,インドの貝多羅(貝葉)も同様であるとすれば,木を削って文字を書くのは世界共通の文化現象といえる。
木簡は世界各地から出土しているが,その中でも中国は,戦国時代から秦,漢,晋を経て唐代にいたるまでの出土遺物があり,わけても漢簡は1983年現在で4万点におよぶ出土を見,他の地域とは比較にならぬほど事例が多いので研究も発展しており,木簡研究といえばほとんど中国のことになる。冊の例でもわかるように,漢字には木簡に関する文字が多くあり,それだけ概念が発達していたことを示す。簡は本来竹製の〈ふだ〉を意味し,木製は牘(とく)や札で表記し,竹簡・木牘の意味で簡牘というのが本来の呼称である。漢簡では,漢の1尺に当たる約23cm,幅1cmのものが標準で,2尺のものを檄(げき),3尺のものを槧(ざん)といい,2行書く幅のものを両行,書く面を3面以上作ったものを觚(こ)と呼ぶ。また簡面をカバーし,その表面に宛名を書くものを検,同じものを二分して別に保持し,必要なときにつき合わせて証拠に使うものを符,品物につける鉄道荷札のようなものを楬(けつ),旅行者の身分証明書を棨(けい)というなど,使用目的による名称もある。中国木簡の出土は1901年にA.スタインがタクラマカン砂漠中のニヤ遺跡で晋簡を発掘したのに始まるが,彼はそれ以前にカローシュティー木簡を発見している(カローシュティー文書)。20世紀前半には西欧人の中央アジア探検によって中国西辺のフィールドにおいて発掘され,スタインの敦煌漢簡,楼蘭晋簡,S.A.ヘディンの楼蘭晋簡,居延漢簡などが有名で,なかでも内モンゴルのエチナ発見の居延漢簡は1万点をこえ,木簡研究の中心課題である。20世紀後半に入ると,中国内部の古墓から副葬されていた木簡が出土するようになり,戦国時代の楚の領域から楚簡,湖北省雲夢睡虎地秦墓から秦簡,甘粛,青海,湖北,山東,河北などの各省から漢簡が出土している。
墓から発見される木簡は,一つは副葬された書物で,山東省臨沂(りんぎ)銀雀山1号墓出土の兵書類,特に一度姿を消した《孫臏(そんひん)兵法》の出土はその白眉であり,法律書を含む睡虎地秦簡は秦律をはじめ法制関係資料で,その研究は今日の最大の注目を集めている。二つは副葬品のリストで,遣策(けんさく)と命名されているが,この出土により,副葬品の名前や逆に名目から品物の形状が明らかになるという効果がある。湖南省長沙馬王堆1号漢墓,3号漢墓の遣策が有名である。一方,西辺のフィールドの再調査が進み,1973,74年には居延漢簡約2万点が出土して現在整理中であり,79年には敦煌漢簡が発掘されてその量はスタインのそれを上まわっている。
敦煌,居延漢簡が木簡研究の中心であるが,出土地が漢代の対匈奴戦線の防衛陣地であるので軍事関係の内容が多く,陣地遺跡とあわせて当時の軍制が明らかになった。そのほか民政をはじめ漢代の生態の断面が浮彫にされ,漢代史研究に大きく寄与している。後述にあるように日本においては1961年に平城宮跡で木簡が出土し,以後各地でも発見され,日本古代史の新史料として注目を集め,郡評論争に終止符を打つなど重要な貢献をしている。中国,日本ともに考古学の発達により文献史料にのみ頼る研究は不十分になりつつあるが,木簡資料はその意味で最も重要である。なお,中国木簡は当時の人の生の文字が見られるので,書道史研究にも重要な影響を与え,特に隷書の研究には貢献するところが大きい。
執筆者:大庭 脩
日本の木簡の材質は檜(ひのき),杉が多い。大きさは長さ十数cmから三十数cmくらいまでのものが多くを占める。形は短冊形を基本形として,ものの機能にしたがって,これに種々の加工がほどこされる。
日本の木簡は中国のもの同様,大部分が発掘調査で出土したものであり,まれに正倉院に伝世されたものがある。第2次大戦前の出土例もあるが,日本における木簡発見の契機になったのは平城宮跡の発掘調査である。同宮跡で最初に木簡が出土したのは1961年1月のことである。内裏北西方の一つの土壙から40点の木簡が出土して話題になった。継続して計画的な調査の行われている平城宮跡において約2万5000点の木簡が出土している(1984年10月現在)。木簡は同宮存続の時代のもので,奈良時代のものが圧倒的な量を占め,これに若干平安時代初頭のものがふくまれる。出土する遺構は土壙(ごみ投棄の穴)や排水溝が大部分である。
日本の古代木簡のなかで質量ともに圧倒的な比重をもつ平城宮木簡について,その形状,内容をここでみておこう。出土する木簡は,当時において用済みになって廃棄されたものであるが,それらは多く元の形態をとどめない。割り,折り,削りなどの変形をうけているものが多い。墨書のある鉋(かんな)屑様のものが出土することがあるが,それは木簡材を再使用するさいに刀子で薄く皮をむくように,墨書面を削りとったものである。出土木簡のなかで削り屑が半数以上を占め,原形をのこさない断簡類が残りの半数以上をかぞえるから,結局,原形をとどめるものは全体の1割強ほどである。それらによって古代木簡の形態を分類すると以下のようになる。(1)第1類 短冊形。(2)第2類 小形矩形。(3)第3類 長方形の材の両端または一端の左右に切込みをいれたもの。(4)第4類 長方形の材の一端をとがらせたもの。以上のほかさまざまの木製品に墨書のあるものがある。したがって日本の木簡の基本形は第1,第2,第4の3類型とみてよい。
日本には複数の簡を紐で連ねるいわゆる冊書は現在のところ出土していない。いずれもが1簡で完結する程度の内容であり,文字数が多い場合には表裏に双行で書くなどのことをしている。中国の木竹簡は,紙が使用される以前の漢代にあっては冊書が存在し,紙普及後の3,4世紀の魏・晋時代には冊書がなく,長さがまちまちで1簡完結のものであることが知られている。このことは,日本の木簡が紙の使用を前提にした,紙木併用期のものであることを示している。現在までにみつかっているもので最古のものは,年記はないが奈良県明日香村坂田寺跡下層から出土したもの,あるいは前期難波宮下層遺構から出土したものであり,いずれも7世紀前半を下らないとされる。したがって大まかにいって日本の木簡の年代は現在のところ7世紀以降であり,《日本書紀》の記述や時代の趨勢(すうせい)からいって紙が相当量普及してからのものである。
平城宮木簡により木簡の記事内容をみると以下のようになる。
(1)文書様木簡 これは古文書学でいうところの文書と記録がある。前者はなんらかの形で授受関係が明らかにされているもので,人や物の移動に関する簡単な内容のものが多い。召喚文,宿直札,就役報告,食料や薬品などの物資の請求文など。後者(記録)はおもに物資の出納に関する覚え書きの類で,なかに官人の考課(勤務評定)の整理カードもふくまれる。文書様木簡は短冊形が多い。
(2)付札 これには単なる物品の付札もあるが,重要で中心になるものは調庸をはじめとする租税物資の付札である。貢進物付札には国郡主戸主姓名(戸口姓名)のほか税目(調,庸,中男作物,贄,雑役,白米,交易物,年料物など),品目(海藻類,魚介類,塩,鍬,鉄,銭,綿,米など),数量,年月日(年月が多い)が記入されており,まれに専当国郡司の名前が書きこまれることがある。貢進物にこのような内容を記した付札をつける根拠は賦役令にもとづいており,絹,絁(あしぎぬ),布は実物に直接墨書し,糸,綿は包紙に記入することになっている。繊維製品の墨書銘の実例は正倉院に現存している。繊維製品を除くいわゆる調雑物と称される海産物類などは,木札に上記のことを記入して荷物につけた。付札の形態は前記の分類で第3類と第4類であり,なかでも第3類の切込みのある形のものが多い。切込みのところに植物性の紐が付着しているものがある。
(3)習字,落書 同じ文字や同じ偏の文字を書き連ねたものや,戯れ書き,落書がかなりの量にのぼる。紙が貴重な時代であるから,習字や落書には木札を用いたのであろう。習字しているもののなかには中国古典の《千字文》《李善注文選》《王勃集》《楽毅論》がふくまれており,また令文を写しとったものもある。古代の官人たちがどのような種類のテキストを使って勉強していたかを知ることができる。
(4)その他 さまざまに加工した木片に墨書するものをすべて木簡と称することにすると,上記の内容のほかにさまざまなものが存在するが,やや特殊なものではあるが古代に限らず中近世の遺跡から多く出土するものに呪符がある。〈蘇民将来〉〈急々如律令〉などの決まり文句を記した付札状のものが井戸や溝から出土する例が多い。あるいはまた,長さ1mをこえる長大なもので,告知札と称すべきものが都大路の側溝から出土している。国境に近い道路上に立てて,往来する人たちに告げ知らせたものである。律令体制は人々のあいだに文字を普及させたが,不特定多数の人たちに対する伝達手段として告知札が有効性をもったのも,律令体制がもたらした産物の一つといえるかもしれない。
以上平城宮跡出土の木簡を中心に日本の古代木簡の特徴を概説したが,他の遺跡から出土する古代木簡の特質もほぼ上記の事項につきるといってよい。現在までに木簡が出土している古代遺跡としては,つぎのようなものがある。都城,宮殿関係のものとしては平城宮および京跡のほか難波宮跡,藤原宮跡,飛鳥京跡,長岡宮および京跡,平安京跡などがあり,地方官衙関係では,大宰府跡,多賀城跡をはじめ各地の国衙・郡衙遺跡などがある。静岡県伊場遺跡や兵庫県山垣遺跡などは,内容豊富な木簡が多数出土することによって,ある種の官衙機能をもつ遺跡として注目されているものである。近年はまた官衙というよりも一般集落遺跡からも木簡の出土が報告されており,律令体制の文書伝達が広範囲に徹底して行われていたことをうかがわせるものである。文字の普及という点からは木簡だけでなく土器の墨書銘も注意されるところで,文字資料の出土する集落遺跡とそうでないものを,遺構のあり方をふくめて検討する必要があろう。このほか国分寺や都下寺院からも木簡が出土しており,現在のところ前者の例としては但馬国分寺のものがまとまった内容をもっている。
古代遺跡にかぎらず中・近世の城館,寺院,集落などからも,木簡の出土が報ぜられており,木片に墨書する習慣が多様な用途をもって後世まで存在していたことがわかる。それらの遺跡から出土するものでは杮経(こけらぎよう)や呪符が一般的にみられるものだが,そのほか遺跡により特別な内容の木簡が出土することがある。その好例は広島県草戸千軒遺跡である。継続的な発掘調査が行われている同遺跡は,中世の港町が河底に埋もれたものである。豊富な各種遺物にまじって木簡が多量に出土しており,そのうち削り屑様のものが多くを占めるのは,木簡の利用が頻繁に行われたことを示している。上端近くの両側に切込みのある付札状のものもあり,古代木簡とのつながりを考えさせる。上方に穴のある部厚い長方形の材に,日付と品名と数量を書いているものが多くみとめられるが,これらは商取引に関するものと推測されている。
近年は毎年20~30ヵ所の遺跡から新たに木簡が出土しており,1984年10月現在,木簡の出土した遺跡数は150をこえている。総点数も,平城宮跡の2万5000点,藤原宮跡の6500点を筆頭に,約4万点をかぞえるにいたっている。このことは一つには発掘調査の件数そのものが,近年うなぎのぼりに増加の一途をたどっていること,木簡出土の遺構,出土状況等に関する情報が普及し,調査担当者がそれによって注意深くなってきたことがあげられる。
木簡はこれを史料として活用するにあたっては,その特性を把握する必要がある。それは木簡が出土品であることにおいて他の考古遺物と同様に,出土状況,木簡材の製作法,樹種同定などの調査を経た上で十全な活用が可能になり,それにより,木簡が紙の文書・記録とは異なる史料としての一次的性格を適確につかむことができる。木簡の出土は特に古代史研究を活性化させたといわれるが,その意味は単に文字資料が増加したにとどまるものではなく,木簡史料の特性により,従来の文献の批判的検討が可能になったことであろう。藤原宮跡出土の木簡で大宝元年(701)以前のものが〈評〉字を用い,以後〈郡〉字に変わることが判明し,従来《日本書紀》や金石文などから郡字使用の時期をめぐって論争のあった問題が一挙に解決をみたことはその好例である(郡評論争)。
木簡の情報を収集することを主たる目的にして,1978年木簡学会が発足し,年1回の研究集会を行い,《木簡研究》を毎年1回刊行している。なおまた,現在木簡の保存に関しては水につけて材の乾燥を防止する方法のほか,PEG(ポリエチレングリコール)を含浸させたうえで凍結乾燥させる方法がとられている。後者の化学処理が徐々に進みつつある。
執筆者:狩野 久
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
字通「木」の項目を見る。
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
文字を記した木の札。墨書によるものが多い。古代に,木の材質をいかしながら紙の文書とともに情報伝達に広く用いた。内容は,文書(狭義の文書や記録・帳簿),付札(物品付札・貢進物荷札),習書などにわけられる。形態は短冊(たんざく)形を基本として,用途によって上下両端の左右に切り欠きを入れたり,下端を尖らせたものがあり,長さ20~30cm,幅3cm程度のものが多い。都城の藤原宮跡・平城宮跡や各地の地方官衙(かんが)遺跡などから,すでに十数万点が出土し,官衙の実務・生活の実態を示す第1次資料として重要な古代史料。中世以降のものも呪符・付札をはじめ各地の遺跡から出土し,木簡は固有の用途・機能をもったものとして長く使われた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ところが周代末期ごろから竹や木を短冊型に切りそろえたものを書写の材料として使用するようになった。これが〈竹簡〉であり〈木簡〉である。現在,漢代の竹簡,木簡が中国本土はもとより新疆ウイグル自治区などの辺境で多数発見されているが,漢代になると白絹を書写の材料とすることが盛行した。…
…ところが20世紀に入って,膨大な古文書群があいついで発見された。すなわち(1)殷代で占いに使われた甲骨文,(2)漢・晋の木簡,とくに西北辺境の居延から出土した居延漢簡,(3)4~11世紀初の敦煌文書および西域文書,なかでも6~8世紀のトゥルファン文書,(4)清朝宮廷に保管されていた公文書類,いわゆる明清檔案(とうあん)である。いずれも発見されるごとに学界の注目を集め,多数の学者が研究を行い,甲骨学,簡牘(かんどく)学,敦煌学という名称も生まれた。…
…これらはあまり加工を施さない自然石を利用して,篆書または篆書から隷書に移る過渡的な古隷によって書かれている。また簡牘(かんとく)(木簡・竹簡),帛書も近年ますます多く発掘されており,前1世紀ごろの隷書にすでに波磔(はたく)の筆法が見られ,これと前後して章草の筆法の明らかに認められるものがある。しかしその大半は,篆書から隷書に移る一種の雑然とした書体によって占められている。…
※「木簡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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