朝日日本歴史人物事典 「赤埴源蔵」の解説
赤埴源蔵
生年:寛文9(1669)
江戸前期の武士。赤穂四十七士のひとり。名は重賢。巷説では姓を赤垣とする。竜野藩士塩山伊左衛門の弟で,赤穂藩士赤埴氏の養子となり,浅野長矩に仕えて馬廻り役,200石を与えられた。長矩の刃傷事件で主家断絶後,高畑源之右衛門などと名を変えて江戸浜松町に住み,,深酒に仇討の志を隠して吉良邸を探索した。元禄15(1702)年吉良邸討ち入りの直前,兄の家を訪ねたが,不在のため,兄の羽織を壁に掛けて酒を供え,別れを惜しんだ。これが芝居や講談で名高い「徳利の別れ」であるが,実際の源蔵は酒を嗜まず,訪ねたのは妹婿の宇都宮藩士田村縫右衛門の家であったともいう。討ち入り後,細川越中守邸に預けられ,同志ともども切腹した。
(宇田敏彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報