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講談 こうだん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

講談
こうだん

古くは講釈という。 17世紀に,食に窮した浪人やお伽衆が,『太平記』を読んで辻や店先で投げ銭を請うたことに始る。江戸時代には,浪人や兵法者が辻々で軍書の講釈や軍談を読むようになり,元禄 13 (1700) 年には,見付の清左衛門が初めて江戸の浅草見付に公認の講釈場を設立した。宝暦年間 (51~64) には銀杏和尚 (霊全) が世話講談を,鯖江正休が大名旗本の出世譚を,成田寿仙がお家騒動物を読みはじめ,さらに馬場文耕が寄席講釈の形式を整えた。天明年間 (81~89) 以後は講釈は隆盛期に向い,名人上手が出て,貞山派,神田派,松林派,田辺派,宝井派の系統を生んだ。第2次世界大戦中,軍部に協力して愛国講談に手を染め,戦後,占領軍指令部が仇討物や軍談を禁じたことなどから急速に衰微。その後多くの女性講談師が輩出して話題を呼んだが,活性化にはいたっていない。

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知恵蔵の解説

講談

軍記、武勇伝などを、張り扇で釈台(しゃくだい)を打って語る話芸。元来は事件、出来事など、ニュースを読んだ。江戸時代の「太平記読み」「辻講釈」から発展。語る場所を釈場(しゃくば)という。1985年頃から女性講談師が台頭し、宝井琴嶺、琴桜や神田陽子、紅、紫らが「源氏物語」「平塚らいてふ」など新作、女性問題をテーマにした新講談で話題になった。専門の演芸場を持たないなど、停滞気味。2006年9月現在、女性29人を含む57人が活躍中。

(太田博 演劇・演芸評論家 / 2007年)

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デジタル大辞泉の解説

こう‐だん〔カウ‐〕【講談】

寄席(よせ)演芸の一。軍記・武勇伝・かたき討ち・侠客伝などを、おもしろく調子をつけて読んで聞かせる話芸。江戸時代には講釈とよばれ、太平記読みに始まるという。

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百科事典マイペディアの解説

講談【こうだん】

寄席演芸の一種。軍談,仇討(あだうち),御家騒動,世話物などを巧みな話術で語るもの。明治以前は講釈といい,語り手を講釈師,語る場所を釈場(しゃくば)といった。もともと講釈とは典籍を評釈して講義することを意味する言葉で,講釈・講談の語は中世の仏教関係の文献に登場する。
→関連項目一竜斎貞山神田伯山旭堂南陵口承文芸小金井蘆洲古今亭志ん生立川文庫

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とっさの日本語便利帳の解説

講談

講釈。軍記、武勇伝、出世物語などを独特の節を付けて語る話芸。江戸時代の「太平記読み」「辻講釈」から発展した。釈台(しゃくだい)を張り扇で叩きながら、リズムを取る。

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世界大百科事典 第2版の解説

こうだん【講談】

寄席演芸の一種。ふつう,武勇伝,仇討(あだうち),政談,実録のたぐいを,釈台と呼ばれる机を前に張扇をたたきながら,ひとりで口演する。〈講釈〉というのが明治以前の伝統的な呼称。もともと講釈とは典籍を評釈して講義することで,講釈・講談の用語は中世の仏教関係の文献に頻出する。講釈と講談は厳密にいえば区別があったが,話芸のうえでは同義に用いられ,近代以降は講談が一般的になった。経典講釈は仏教が主であるが,儒教や神道でも行われていた。

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大辞林 第三版の解説

こうだん【講談】

寄席演芸の一。座して、前に置いた釈台を張り扇などで打ちながら軍談・仇討ち・金襖物・俠客伝・世話物などを、調子をつけて語る話芸。元禄(1688~1704)頃「太平記読み」から起こったといわれ、江戸時代は、「講釈」といった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

講談
こうだん

話術を中心にした日本の伝統芸能。落語などとともに舌耕(ぜっこう)芸といわれ、寄席(よせ)演芸の一つ。かつては講釈ともよばれたが、明治以後は講談のほうが多く用いられる。講談、講釈ともに書物の文意・語義をわかりやすく説き聞かせる意である。浄瑠璃(じょうるり)(とくに義太夫節(ぎだゆうぶし))の「かたる」、落語の「はなす」に対して、講談は「よむ」という。釈台(しゃくだい)という小机を前に置き、張扇(はりせん)や拍子木などを用いて、男子1人で演ずるのが本来の姿で、演者を講釈師、講談師と称する。江戸時代に発展し、明治時代に最盛期を迎えたが、近年は衰微している。
 講談は、仏教の説教、神道講釈、古典講釈、ことに太平記読みなどを源流として成立した。『太平記』を読む物語僧、談義僧は15世紀後半には存在したと思われるが、芸能者として姿を現すのは江戸時代に入ってからである。[延広真治]

江戸時代

江戸舌耕師の祖と称せられるのが、明暦(めいれき)(1655~1658)ごろの浄瑠璃作者岡清兵衛(おかせいべえ)で、強記で知られ、『太平記』を読んで喝采(かっさい)を博したと伝えられる。続いて元禄(げんろく)(1688~1704)ごろの著名な太平記読みとして、江戸の赤松清左衛門、赤松青竜軒、大坂の甫水(ほすい)、道久(どうきゅう)、京都の原栄宅(はらえいたく)らが知られる。清左衛門は京から下り、浅草見付御門脇(わき)を活躍の場としたため、この地の講釈場を太平記場と称し、明治まで続いた。太平記読みはやがて『源平盛衰記』『三河後風土記(みかわごふどき)』『曽我(そが)物語』などの軍談も読むようになった。
 元禄期よりやや時代が下ると、江戸では、武藤(むとう)源兵衛、田丸佐右衛門(さえもん)、大名家出入りの神田白竜子、浅草寺境内で笑談義を行った霊全(りょうぜん)らが現れ、講談の多様化が進んだ。上方(かみがた)では、『太閤記(たいこうき)』を読んだ岡本文助や沢村綾助(あやすけ)、『徒然草(つれづれぐさ)』の今岡丹波(たんば)、『非人仇討(あだうち)』を得意とした勅使川原(てしがわら)源内らが知られるが、もっとも聞こえたのは神道講釈の増穂残口(ますほざんこう)で、男女陰陽和合の理を説く『艶道通鑑(えんどうつがん)』(1715)などの残口八部書を刊行した。霊全や残口の流れをくんだ狂講で江戸の人気男となったのが志道軒(しどうけん)で、浅草三社権現前の葭簀(よしず)張りの中で猥雑(わいざつ)な仕方講釈を行った。一方まじめな実講では、『虚実雑談集』(1749)などの著述もある滋野瑞竜軒(しげのずいりゅうけん)、『太閤記』の成田寿仙(じゅせん)、『伊達(だて)騒動』の村上魚淵(ぎょえん)らが人気を得た。
 1758年(宝暦8)に美濃郡上(みのぐじょう)の百姓一揆(いっき)を講じて処刑された馬場文耕(ぶんこう)は、世話物の分野を開拓し、新風を吹き込んだ。大坂の吉田一保(いっぽう)は、持ちネタの『伊賀の仇討』が1776年(安永5)に『伊賀越乗掛合羽(いがごえのりかけがっぱ)』として脚色され大好評を博した。その門より吉田天山、2代吉田一保が出た。江戸で初代一保に匹敵するのは文耕門人森川馬谷(ばこく)で、講談の娯楽化を推進し、演目を軍談・御家騒動・世話物などに区別し、また初・中・後の3段に分け、前座を使うことを始めるなど興行の形態を整えた。馬谷以後ますます講談は軟らかくなり、ことに桃林亭東玉(とうりんていとうぎょく)は、講釈師は芸人なりとの自覚から、わかりやすい講談を心がけた。この東玉の門からは小金井派の祖小金井北梅が出た。また、馬谷の門人の東流斎馬琴(とうりゅうさいばきん)は大坂に上り多数の門人を育て、講釈種の東西交流に功があり、登場人物の音声を変えて読むなど、職人受けのする芸風で世話講談を発展させた。他方、講釈師は芸人にあらずとの信念をもつ伊東燕晋(いとうえんしん)は、古格を守り、奉行(ぶぎょう)所から備え付けの高座使用の許可を得るなど、講釈師の身分向上に尽くした。この伊東派からは、7世市川団十郎に『勧進帳』を伝えた2代伊東燕凌(えんりょう)が出る。
 1842年(天保13)、天保(てんぽう)の改革のため多くの寄席が廃止され、演目も軍談や神道講釈などに制限されたが、やがて復活し、以前にもまして盛んになった。『伊賀の水月(すいげつ)』を練り上げた金上斎典山(きんじょうさいてんざん)は貞山(ていざん)派の祖で、その門より『義士伝』の初代一竜斎(いちりゅうさい)貞山、邑井(むらい)派の祖邑井一(はじめ)らが出た。田辺派の祖田辺南鶴(なんかく)の門から強記の南窓(のち柴田(しばた)派を開く)が出、以後田辺派は無本を誇りとした。ほかに『甲越軍記(こうえつぐんき)』の初代田辺南竜(なんりゅう)、旭堂(あさひどう)派の祖旭堂南麟(なんりん)が聞こえる。田辺派と同系の初代神田伯竜(はくりゅう)の門人伯山は『天一坊(てんいちぼう)』を得意とし、同門の伯円は松林亭(しょうりんてい)を名のって松林派を開いた。師なしで大看板となった石川一夢(いちむ)は『佐倉義民伝』を売り物とし、落語家と共演した。また『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』の作者宝井琴凌(きんりょう)、『切られ与三郎』の作者乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい)も幕末の釈界をにぎわした。また河竹黙阿弥(もくあみ)はじめ、狂言作者は盛んに講釈種を劇化し、明治に至る。[延広真治]

明治以降

明治維新以後、講談はますます盛んとなった。巾着(きんちゃく)切り物の一立斎文車(いちりゅうさいぶんしゃ)に対して白浪物(しらなみもの)を得意とした2代松林伯円(はくえん)は、『鼠小僧(ねずみこぞう)』『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』などを創作し、維新後は新政府の意向を受けて教導職となり、洋服着用、テーブルを用い、新聞講談の新領域を開いた。この伯円とともに明治天皇の御前講演を行った初代桃川如燕(ももかわじょえん)は、伊東派より出、『百猫伝(ひゃくびょうでん)』などを得意としたが、門人に美声の桃川実がいる。のちに衆議院議員にもなった伊藤痴遊(ちゆう)は、政治講談を行った。宝井派より独立した放牛舎桃林(ほうぎゅうしゃとうりん)、修羅場が得意で「のんのん」の異名をとった2代田辺南竜、『天保水滸伝』を練り上げた5代伊東陵潮(りょうちょう)、『天一坊』の2代神田伯山、『小夜衣草紙(さよぎぬぞうし)』の邑井一、修羅場読みの2代小金井芦洲(ろしゅう)ら多士済々であった。1881年(明治14)に講談組合が結成されたものの、1891年には正義派と睦(むつみ)派に分裂、やがて統一されたが、1905年(明治38)正義派と同志派に分かれ、3年後に合同なったが、不参加者が自由派を名のった。一方、上方では三省社一瓢(さんせいしゃいっぴょう)、山崎琴書(きんしょ)らが知られるが、異彩を放つのは、速記本を多数刊行した神田伯竜、立川文庫の2代玉田玉秀斎(たまだぎょくしゅうさい)である。
 講談の凋落(ちょうらく)は急であった。上方ではついに昭和に入っては2代旭堂南陵(きょくどうなんりょう)1人となったが、東京においても明治30年代初めよりその兆候が現れ、日露戦争を境に急速に衰えていった。1906年の東京市役所発行「東京案内」によると、東京の寄席の総数141、うち講談席28、浪花節(なにわぶし)席は33となっている。さらに1923年(大正12)の関東大震災で打ちのめされ、復興景気もつかのま、講釈種の浪花節はもてはやされたものの、講談自体は映画やレビューなどに圧倒され続けた。とはいえ、『清水次郎長伝』を売り物にした3代神田伯山、ことに世話物を得意として名人とうたわれた3代錦城斎典山(きんじょうさいてんざん)、講談組合頭取と落語協会会長をも兼ね『義士伝』を得意とした6代一竜斎貞山、明るい芸風で人気抜群であった2代大島伯鶴(はっかく)らが活躍した。その貞山の命を奪った東京大空襲は、2軒残った講釈場、永花亭(えいかてい)、聞楽(ぶんらく)も焼き尽くした。
 第二次世界大戦後、講談はいよいよ不振を極めた。東京・佃島(つくだじま)の住吉亭など講釈場の存廃はあったが、1950年(昭和25)9月上野の本牧亭(ほんもくてい)が開場、唯一の定席として採算を度外視した席亭の侠気(きょうき)により、かろうじてその城を確保し、安藤鶴夫(つるお)著『巷談(こうだん)本牧亭』(1963)の直木賞受賞が講談に世人の関心を集める契機となり、一竜斎貞鳳(ていほう)もマスコミでの人気を利して、講談復興への手掛りを模索したが、かつての人気を取り戻せなかった。この間、1949年には5代神田伯竜、1954年5代田辺南竜、1965年4代邑井貞吉(ていきち)、1966年7代一竜斎貞山、1967年2代神田松鯉(しょうり)、1968年5代一竜斎貞丈、1974年服部伸(はっとりしん)、1976年5代神田伯山、1985年5代宝井馬琴が没し、ついに1990年(平成2)1月、本牧亭は閉鎖された。[延広真治]

演目

講談の素材として、江戸時代もっとも重要なのは実録体小説であった。種々の街談巷説は、講談と実録体小説との間の出入りを繰り返して、説話として成長した。『太閤記』等の軍談は太平記読みの直系で、ことに合戦の模様を独特の調子をつけて読むのを修羅場(しらば、ひらば)と称し、講談の典型とされ、講釈師ののどの鍛練にも用いられた。『曽我紋尽(そがもんづく)し』等が有名である。金襖物(きんぶすまもの)(評定物(ひょうじょうもの))には『加賀騒動』等があり、政談には『大岡政談』等、仇討物には『義士伝』『伊賀の水月』等、武芸物には『寛永(かんえい)三馬術』等があり、三尺物(侠客が三尺帯を締めていたところから出た呼称)に『天保水滸伝』等がある。ほかに、『日蓮(にちれん)記』等の高僧伝、『関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』等の力士伝なども好まれた。町人の世界を描いた世話物には、『天保六花撰』等があり、『鼠小僧』のようにことに泥棒を主人公とするものを白浪物とよぶ。一方、軍談など古格を守った長い読み物に対して、世話物などの短い読み物を端物(はもの)または一席物という。明治期に入って、新聞講談、文芸講談、翻訳講談などの新しい分野も開け、政治講談には『星亨(ほしとおる)伝』等、昭和期のスポーツ講談には『東京オリンピック入場式』等もある。[延広真治]

現況

講談はかつての全盛期のおもかげはなく、娯楽の多様化で落語、映画、テレビなどに追われ、浪花節とともに衰微している。東京は講談協会(会長6代一竜斎貞水(ていすい))と日本講談協会(会長3代神田松鯉)に別れ、前者に6代一竜斎貞水、6代宝井馬琴、田辺一鶴らが所属し、後者は3代神田松鯉、2代神田愛山(あいざん)らで形成されている。大阪には4代旭堂南陵らが活躍するほか、上方講談協会がある。
 衰微の原因には、何席も連続して読み続けられる長さが、今日の生活の速度にあわなくなったこと、日々起こる事件の真相や政治の裏面を講釈師を通して聴くよりも、週刊誌やテレビの報道のほうがおもしろいこと、名人上手に乏しいことなどがあげられよう。しかし、東京では1979年(昭和54)に国立劇場演芸場が開場したこと、女流講釈師の増加、大阪では南陵ただ1人の状態から脱したことなどが明るい話題である。また、1997年(平成9)2代神田山陽(さんよう)、3代旭堂南陵、6代小金井芦洲の3名が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財の認定を、2002年には6代一竜斎貞水が重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。なお釈界の現況を知るには、田辺孝治編集『講談研究』(月刊。2006年7月号をもって休刊)が重宝である。[延広真治]
『佐野孝著『講談五百年』(1943・鶴書房) ▽関根黙庵著『講談落語考(原題「講談落語今昔譚」)』(1967・雄山閣出版) ▽関根黙庵著、山本進編『講談落語今昔譚』(1999・平凡社・東洋文庫) ▽中村幸彦他編『日本庶民文化史料集成8 寄席・見世物』(1976・三一書房) ▽『中村幸彦著述集10 舌耕文芸談』(1983・中央公論社) ▽吉沢英明著『講談明治編年史』(1979・私家版) ▽吉沢英明編『大衆芸能資料集成5 講談』(1981・三一書房) ▽吉沢英明著『講談大正編年史』(1981・私家版) ▽吉沢英明著『講談昭和編年史』全3巻(1987~1991・私家版) ▽吉沢英明著『講談明治期速記本集覧』(1995・私家版) ▽吉沢英明著『二代松林伯円年譜稿』(1997・眠牛舎) ▽石井英子著『本牧亭の灯は消えず――席亭・石井英子一代記』(1991・駸々堂出版) ▽3代目旭堂小南陵著『明治期大阪の演芸速記本基礎研究』『明治期大阪の演芸速記本基礎研究 続』(1994、2000・たる出版) ▽阿部主計著『伝統話芸・講談のすべて』(1999・雄山閣出版) ▽安藤鶴夫著『巷談本牧亭』(旺文社文庫・ちくま文庫)』

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世界大百科事典内の講談の言及

【講史】より

…中国の北宋(960‐1127)の首都汴京(べんけい)(開封),南宋(1127‐1276)の首都臨安(杭州)などの都市の盛り場には常設の演芸場があったが,そこで語られた講談のうち,人情噺などを主とする短編を小説といったのに対し,長編の史談を講史と呼んだ。また講史の筆録を評話,あるいは平話といい,現在《三国志平話》《五代史平話》などの作品が伝わっている。…

【実録物】より

…小説,講談,歌舞伎狂言の一系統。実録によった読み物,狂言の意。…

【評書】より

…中国の講談。柳敬亭(1587‐1670?)を始祖としている。…

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