話芸としての講談は、筋の展開を主眼に置いて、書物を朗誦・解説するものであるが、書物を見ずに講談を行なう「無本」という形態もあった。
話術を中心にした日本の伝統芸能。落語などとともに舌耕(ぜっこう)芸といわれ、寄席(よせ)演芸の一つ。かつては講釈ともよばれたが、明治以後は講談のほうが多く用いられる。講談、講釈ともに書物の文意・語義をわかりやすく説き聞かせる意である。浄瑠璃(じょうるり)(とくに義太夫節(ぎだゆうぶし))の「かたる」、落語の「はなす」に対して、講談は「よむ」という。釈台(しゃくだい)という小机を前に置き、張扇(はりせん)や拍子木などを用いて、男子1人で演ずるのが本来の姿で、演者を講釈師、講談師と称する。江戸時代に発展し、明治時代に最盛期を迎えたが、近年は衰微している。
講談は、仏教の説教、神道講釈、古典講釈、ことに太平記読みなどを源流として成立した。『太平記』を読む物語僧、談義僧は15世紀後半には存在したと思われるが、芸能者として姿を現すのは江戸時代に入ってからである。
[延広真治]
江戸舌耕師の祖と称せられるのが、明暦(めいれき)(1655~1658)ごろの浄瑠璃作者岡清兵衛(おかせいべえ)で、強記で知られ、『太平記』を読んで喝采(かっさい)を博したと伝えられる。続いて元禄(げんろく)(1688~1704)ごろの著名な太平記読みとして、江戸の赤松清左衛門、赤松青竜軒(せいりゅうけん)、大坂の甫水(ほすい)、道久(どうきゅう)、京都の原栄宅(はらえいたく)らが知られる。清左衛門は京から下り、浅草見付御門脇(わき)を活躍の場としたため、この地の講釈場を太平記場と称し、明治まで続いた。太平記読みはやがて『源平盛衰記』『三河後風土記(みかわごふどき)』『曽我(そが)物語』などの軍談も読むようになった。
元禄期よりやや時代が下ると、江戸では、武藤源兵衛(むとうげんべえ)、田丸佐右衛門(たまるさえもん)、大名家出入りの神田白竜子(かんだはくりゅうし)、浅草寺境内で笑談義を行った霊全(りょうぜん)らが現れ、講談の多様化が進んだ。上方(かみがた)では、『太閤記(たいこうき)』を読んだ岡本文助や沢村綾助(あやすけ)、『徒然草(つれづれぐさ)』の今岡丹波(たんば)、『非人仇討(あだうち)』を得意とした勅使川原源内(てしがわらげんない)らが知られるが、もっとも聞こえたのは神道講釈の増穂残口(ますほざんこう)で、男女陰陽和合の理を説く『艶道通鑑(えんどうつがん)』(1715)などの残口八部書を刊行した。霊全や残口の流れをくんだ狂講で江戸の人気男となったのが志道軒(しどうけん)で、浅草三社権現前の葭簀(よしず)張りの中で猥雑(わいざつ)な仕方講釈を行った。一方まじめな実講では、『虚実雑談集』(1749)などの著述もある滋野瑞竜軒(しげのずいりゅうけん)、『太閤記』の成田寿仙(じゅせん)、『伊達(だて)騒動』の村上魚淵(ぎょえん)らが人気を得た。
1758年(宝暦8)に美濃郡上(みのぐじょう)の百姓一揆(いっき)を講じて処刑された馬場文耕(ぶんこう)は、世話物の分野を開拓し、新風を吹き込んだ。大坂の吉田一保(いっぽう)は、持ちネタの『伊賀の仇討』が1776年(安永5)に『伊賀越乗掛合羽(いがごえのりかけがっぱ)』として脚色され大好評を博した。その門より吉田天山、2代吉田一保が出た。江戸で初代一保に匹敵するのは文耕門人森川馬谷(ばこく)で、講談の娯楽化を推進し、演目を軍談・御家騒動・世話物などに区別し、また初・中・後の3段に分け、前座を使うことを始めるなど興行の形態を整えた。馬谷以後ますます講談は軟らかくなり、ことに桃林亭東玉(とうりんていとうぎょく)は、講釈師は芸人なりとの自覚から、わかりやすい講談を心がけた。この東玉の門からは小金井派の祖小金井北梅が出た。また、馬谷の門人の東流斎馬琴(とうりゅうさいばきん)は大坂に上り多数の門人を育て、講釈種の東西交流に功があり、登場人物の音声を変えて読むなど、職人受けのする芸風で世話講談を発展させた。他方、講釈師は芸人にあらずとの信念をもつ伊東燕晋(いとうえんしん)は、古格を守り、奉行(ぶぎょう)所から備え付けの高座使用の許可を得るなど、講釈師の身分向上に尽くした。この伊東派からは、7世市川団十郎に『勧進帳』を伝えた2代伊東燕凌(えんりょう)が出る。
1842年(天保13)、天保(てんぽう)の改革のため多くの寄席が廃止され、演目も軍談や神道講釈などに制限されたが、やがて復活し、以前にもまして盛んになった。『伊賀の水月(すいげつ)』を練り上げた金上斎典山(きんじょうさいてんざん)は貞山(ていざん)派の祖で、その門より『義士伝』の初代一竜斎(いちりゅうさい)貞山、邑井(むらい)派の祖邑井一(はじめ)らが出た。田辺派の祖田辺南鶴(なんかく)の門から強記の南窓(のち柴田(しばた)派を開く)が出、以後田辺派は無本を誇りとした。ほかに『甲越軍記(こうえつぐんき)』の初代田辺南竜(なんりゅう)、旭堂(あさひどう)派の祖旭堂南麟(なんりん)が聞こえる。田辺派と同系の初代神田伯竜(はくりゅう)の門人伯山は『天一坊(てんいちぼう)』を得意とし、同門の伯円は松林亭(しょうりんてい)を名のって松林派を開いた。師なしで大看板となった石川一夢(いちむ)は『佐倉義民伝』を売り物とし、落語家と共演した。また『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』の作者宝井琴凌(きんりょう)、『切られ与三郎』の作者乾坤坊良斎(けんこんぼうりょうさい)も幕末の釈界をにぎわした。また河竹黙阿弥(もくあみ)はじめ、狂言作者は盛んに講釈種を劇化し、明治に至る。
[延広真治]
明治維新以後、講談はますます盛んとなった。巾着(きんちゃく)切り物の一立斎文車(いちりゅうさいぶんしゃ)に対して白浪物(しらなみもの)を得意とした2代松林伯円(はくえん)は、『鼠小僧(ねずみこぞう)』『天保六花撰(てんぽうろっかせん)』などを創作し、維新後は新政府の意向を受けて教導職となり、洋服着用、テーブルを用い、新聞講談の新領域を開いた。この伯円とともに明治天皇の御前講演を行った初代桃川如燕(ももかわじょえん)は、伊東派より出、『百猫伝(ひゃくびょうでん)』などを得意としたが、門人に美声の桃川実がいる。のちに衆議院議員にもなった伊藤痴遊(ちゆう)は、政治講談を行った。宝井派より独立した放牛舎桃林(ほうぎゅうしゃとうりん)、修羅場が得意で「のんのん」の異名をとった2代田辺南竜、『天保水滸伝』を練り上げた5代伊東陵潮(りょうちょう)、『天一坊』の2代神田伯山、『小夜衣草紙(さよぎぬぞうし)』の邑井一、修羅場読みの2代小金井芦洲(ろしゅう)ら多士済々であった。1881年(明治14)に講談組合が結成されたものの、1891年には正義派と睦(むつみ)派に分裂。やがて統一されたが、1905年(明治38)正義派と同志派に分かれ、3年後に合同なったが、不参加者が自由派を名のった。一方、上方では三省社一瓢(さんせいしゃいっぴょう)、山崎琴書(きんしょ)らが知られるが、異彩を放つのは、速記本を多数刊行した神田伯竜、立川文庫の2代玉田玉秀斎(たまだぎょくしゅうさい)である。
講談の凋落(ちょうらく)は急であった。上方ではついに昭和に入っては2代旭堂南陵(きょくどうなんりょう)1人となったが、東京においても明治30年代初めよりその兆候が現れ、日露戦争を境に急速に衰えていった。1906年の東京市役所発行「東京案内」によると、東京の寄席の総数141、うち講談席28、浪花節(なにわぶし)席は33となっている。さらに1923年(大正12)の関東大震災で打ちのめされ、復興景気もつかのま、講釈種の浪花節はもてはやされたものの、講談自体は映画やレビューなどに圧倒され続けた。とはいえ、『清水次郎長伝』を売り物にした3代神田伯山、ことに世話物を得意として名人とうたわれた3代錦城斎典山(きんじょうさいてんざん)、講談組合頭取と落語協会会長をも兼ね『義士伝』を得意とした6代一竜斎貞山、明るい芸風で人気抜群であった2代大島伯鶴(はっかく)らが活躍した。その貞山の命を奪った東京大空襲は、2軒残った講釈場、永花亭(えいかてい)、聞楽(ぶんらく)も焼き尽くした。
第二次世界大戦後、講談はいよいよ不振を極めた。東京・佃島(つくだじま)の住吉亭など講釈場の存廃はあったが、1950年(昭和25)9月上野の本牧亭(ほんもくてい)が開場、唯一の定席として採算を度外視した席亭の侠気(きょうき)により、かろうじてその城を確保した。さらに安藤鶴夫(つるお)著『巷談(こうだん)本牧亭』(1963)の直木賞受賞が講談に世人の関心を集める契機となり、一竜斎貞鳳(ていほう)もマスコミでの人気を利して、講談復興への手掛りを模索したが、かつての人気を取り戻せなかった。この間、1949年には5代神田伯竜、1954年5代田辺南竜、1965年4代邑井貞吉(ていきち)、1966年7代一竜斎貞山、1967年2代神田松鯉(しょうり)、1968年5代一竜斎貞丈、1974年服部伸(はっとりしん)、1976年5代神田伯山、1985年5代宝井馬琴が没し、ついに1990年(平成2)1月、本牧亭は閉鎖された。
[延広真治]
講談の素材として、江戸時代もっとも重要なのは実録体小説であった。種々の街談巷説は、講談と実録体小説との間の出入りを繰り返して、説話として成長した。『太閤記』等の軍談は太平記読みの直系で、ことに合戦の模様を独特の調子をつけて読むのを修羅場(しらば、ひらば)と称し、講談の典型とされ、講釈師ののどの鍛練にも用いられた。『曽我紋尽(そがもんづく)し』等が有名である。金襖物(きんぶすまもの)(評定物(ひょうじょうもの))には『加賀騒動』等があり、政談には『大岡政談』等、仇討物には『義士伝』『伊賀の水月』等、武芸物には『寛永(かんえい)三馬術』等があり、三尺物(侠客が三尺帯を締めていたところから出た呼称)に『天保水滸伝』等がある。ほかに、『日蓮(にちれん)記』等の高僧伝、『関取千両幟(せきとりせんりょうのぼり)』等の力士伝なども好まれた。町人の世界を描いた世話物には、『天保六花撰』等があり、『鼠小僧』のようにことに泥棒を主人公とするものを白浪物とよぶ。一方、軍談など古格を守った長い読み物に対して、世話物などの短い読み物を端物(はもの)または一席物という。明治期に入って、新聞講談、文芸講談、翻訳講談などの新しい分野も開け、政治講談には『星亨(ほしとおる)伝』等、昭和期のスポーツ講談には『東京オリンピック入場式』等もある。
[延広真治]
講談はかつての全盛期のおもかげはなく、娯楽の多様化で落語、映画、テレビなどに追われ、浪花節とともに衰微している。東京は講談協会(会長6代一竜斎貞水(ていすい))と日本講談協会(会長3代神田松鯉)に別れ、前者に6代一竜斎貞水、6代宝井馬琴、田辺一鶴らが所属し、後者は3代神田松鯉、2代神田愛山(あいざん)らで形成されている。大阪では4代旭堂南陵(きょくどうなんりょう)(1949―2020)らが活躍。上方講談協会がある。
衰微の原因には、何席も連続して読み続けられる長さが、今日の生活の速度にあわなくなったこと、日々起こる事件の真相や政治の裏面を講釈師を通して聴くよりも、週刊誌やテレビの報道のほうがおもしろいこと、名人上手に乏しいことなどがあげられよう。しかし、東京では1979年(昭和54)に国立劇場演芸場が開場したこと、女流講釈師の増加、大阪では南陵ただ1人の状態から脱したことなどが明るい話題である。また、1997年(平成9)2代神田山陽(さんよう)、3代旭堂南陵、6代小金井芦洲の3名が記録作成等の措置を講ずべき無形文化財の認定を、2002年には6代一竜斎貞水が重要無形文化財保持者(人間国宝)の認定を受けた。なお釈界の現況を知るには、田辺孝治編集『講談研究』(月刊。2006年7月号をもって休刊)が重宝である。
[延広真治]
『佐野孝著『講談五百年』(1943・鶴書房)』▽『関根黙庵著『講談落語考(原題「講談落語今昔譚」)』(1967・雄山閣出版)』▽『関根黙庵著、山本進編『講談落語今昔譚』(1999・平凡社・東洋文庫)』▽『中村幸彦他編『日本庶民文化史料集成8 寄席・見世物』(1976・三一書房)』▽『『中村幸彦著述集10 舌耕文学談』(1983・中央公論社)』▽『吉沢英明著『講談明治編年史』(1979・私家版)』▽『吉沢英明編『大衆芸能資料集成5 講談』(1981・三一書房)』▽『吉沢英明著『講談大正編年史』(1981・私家版)』▽『吉沢英明著『講談昭和編年史』全3巻(1987~1991・私家版)』▽『吉沢英明著『講談明治期速記本集覧』(1995・私家版)』▽『吉沢英明著『二代松林伯円年譜稿』(1997・眠牛舎)』▽『石井英子著『本牧亭の灯は消えず――席亭・石井英子一代記』(1991・駸々堂出版)』▽『3代目旭堂小南陵著『明治期大阪の演芸速記本基礎研究』『明治期大阪の演芸速記本基礎研究 続』(1994、2000・たる出版)』▽『阿部主計著『伝統話芸・講談のすべて』(1999・雄山閣出版)』▽『安藤鶴夫著『巷談本牧亭』(旺文社文庫・ちくま文庫)』
寄席演芸の一種。ふつう,武勇伝,仇討(あだうち),政談,実録のたぐいを,釈台と呼ばれる机を前に張扇をたたきながら,ひとりで口演する。〈講釈〉というのが明治以前の伝統的な呼称。もともと講釈とは典籍を評釈して講義することで,講釈・講談の用語は中世の仏教関係の文献に頻出する。講釈と講談は厳密にいえば区別があったが,話芸のうえでは同義に用いられ,近代以降は講談が一般的になった。経典講釈は仏教が主であるが,儒教や神道でも行われていた。歴史的には,仏教の経典講釈,法門講談の系列の中に戦記物語が加わり,講釈・講談はしだいに話芸の形態をもつようになったと考えられる。そのことは,講談の源流といえる〈太平記読み〉にしても,その《太平記》の作者が小島法師なる人物として伝えられることや,《太平記》の評論の集大成である《太平記評判秘伝理尽鈔(りじんしよう)》の各地への伝播者に法華法印日応という説教僧があったことなどから察知できる。《平家物語》《源平盛衰記》《太平記》が琵琶法師や物語僧によって口演されたのは,仏教における唱導(説教)の変形ともみられる。戦国大名をとりまく御伽(おとぎ)衆の中にも僧形の話し手,語り手が多数含まれていた。戦国時代の御伽衆の中でとくに有名な由己法眼(ゆうこほうげん)は,800人におよんだ豊臣秀吉の御伽衆の中でも傑出し,〈物読み〉の第一人者であった。〈太平記読み〉はこの法門講談の〈物読み〉の系統から出た。
講談が江戸初期に赤松法印から始まったという説は古くから伝承されているが,この僧も法門講談の系列から出たようである。赤松を名のる講釈師が近世に多数あらわれたのは,かつて赤松則村(のりむら)や赤松満祐(みつすけ)など多くの猛将を出した赤松氏の末のものが〈太平記読み〉として先祖を称揚したものと思われる。1697年(元禄10)ごろに浪花の赤松梅竜と時を同じくして江戸の堺町によしず張りの講席を設け,原昌元と名のって軍談を講じ,《太平記》を読んで大いに名を挙げたのが赤松青竜軒である。彼は名和清左衛門(赤松清左衛門)とともに江戸の講釈師として著名であるが,もともと播州三木の郷士で,本名を赤松祐輔といい,伝記は不詳だが赤松一族であることはまちがいない。元禄以後,講釈はいよいよ話芸として盛んになっていった。元禄時代(1688-1704)の上方の講釈師としては赤松梅竜のほかに永惕(えいてき),道久(どうきゆう),甫水(ほすい)らが有名である。享保(1716-36)のころには霊全(銀杏(いちよう)和尚)が江戸浅草でよしず張りの小屋を設けてこっけいな読み方で人気を集めた。神田白竜子は武家屋敷などに招かれて兵法書や軍記物を講釈し,大家として尊敬された。一方,滋野瑞竜軒(しげのずいりゆうけん)も軍談読みの大家として知られたが,当時まで尊大にかまえて読んでいた軍談を,客受けをあてこんで読むようになり,ここにいわば芸人的傾向がみられはじめた。成田寿仙は《伊達騒動》《黒田騒動》など騒動物を読み好評を博したが,幕府からの禁止令により,《日蓮記》など説教種に活路を開いた。また村上魚淵もよく知られた。宝暦・明和(1751-72)のころに,男根形の棒を手に,僧侶・女性を痛罵する講釈で異彩を放ったのは深井志道軒(1682-1765)で,彼のことは平賀源内の《風流志道軒伝》に記されている。馬場文耕は講釈場(略して釈場(しやくば)という)の整備につとめたが幕政批判が注目され,1758年(宝暦8)9月に金森騒動を扱った《珍説森の雫(しずく)》を読んで処刑された。
天明(1781-89)のころから講釈は一段と栄え,仇討物,博徒物,心中物,俠客(きようかく)物,白浪物など読み物がふえていった。当初の大道での辻講釈ではなく,講釈場における話芸としての講釈の完成とともに幾多の名人が出現した。森川馬谷(ばこく)は読み物を初・中・後の3席に分け,修羅場(軍談),評定物(お家騒動物),世話物と区別し,前座を使った。これが,のちの前座・中座読(なかざよみ)・後座読(ござよみ)(真打ち)の順位の基となった。講釈場における看板やビラの書き方などの創案も馬谷の業績である。上方では吉田一保,吉田天山らが活躍した。文化・文政・天保(1804-44)のころに講釈の全盛時代が到来し,大坂に吉田素山(そざん),笹井燕林(えんりん),玉田玉秀斎(ぎよくしゆうさい),名古屋に金山正一があり,円山尼は女講釈師として知られた。桃林亭東玉(とうりんていとうぎよく),鏑井北海(かぶらいほつかい)(のち小金井蘆洲(こがねいろしゆう)),東流斎馬琴(3代目より宝井馬琴)らは講釈の東西交流に力があった。
講釈はしだいに庶民生活の中の話芸として入りこみ,天保時代に講釈師は800名を超え,世話講釈が歓迎された。このころまでに宝井,貞山,神田,松林(しようりん),伊東,桃川,田辺など今日まで続く講釈師の系列も出そろい,各流派がそれぞれの芸を競い合った。伊東燕晋(えんしん)は,講釈師は芸人ではなく指導者であるというプライドをもち,湯島天神境内の自宅で威儀を正して《太平記》《川中島軍記》《三国志》などを読んだ。伊東派からは2代目燕凌(えんりよう),潮花(ちようか),初代桃川如燕(じよえん)が出た。錦城斎典山(きんじようさいてんざん)は貞山派の祖として活躍し,その門下から出た一竜斎貞山は《義士銘々伝》で名をあげた。貞山派から邑井(むらい)派の祖,邑井一(はじめ)が出た。田辺南鶴(なんかく)は田辺派を開き,弟子の南窓(なんそう)は無本で読む方法をとった。乾坤坊(けんこんぼう)良斎は作家的才能を示した。神田派は初代神田伯竜が知られ,その門下の神田伯山は《天一坊》を読んで一世を風靡した。同じ伯竜門下の松林伯円は松林派の祖となった。東西の寄席が講釈専門の釈場,落語中心の席に二分されるようになったのは嘉永(1848-54)のころである。江戸では安政(1854-60)のころ釈場が220軒,噺の席が172軒であった。天保の改革でひどく制限された寄席の数も幕末期には回復した。
明治維新は講談界にも大きな影響を与えた。1872年(明治5)4月に神道思想に基づく国民教化を目的として発令された《三条の教憲》普及のために一時的ではあったが講釈師が教導職となったこともある。明治初期に〈開化講談〉〈新講談〉と称して活動したのは2代目松林伯円である。彼はかつて白浪物を得意として〈泥棒伯円〉といわれたが,新時代を迎えて《コロンブス伝》などの翻案物をこころみるとともに,〈時事講談〉や新聞記事をもとにした〈新聞講談〉で評判になった。また,坂崎斌(びん)(1855-1914)が82年に〈東洋一派民権講釈〉と題して自由民権を唱えてから〈政治講談〉が生まれ,やがて伊藤痴遊が出現した。80年ごろから97年ごろまでは近代講談の黄金時代で,東京の釈場は80軒,講釈師は800名にのぼった。そして2代目松林伯円,3代目一竜斎貞山,桃川如燕,邑井一,3代目邑井貞吉(ていきち),放牛舎(ほうぎゆうしや)桃林,2代目小金井蘆洲,宝井馬琴など多くの名人がいた。しかし,明治の末から大正時代に入って講談は衰退しはじめた。映画の登場,仲間同士の不和,読み物のマンネリ化などが要因で,さらに1923年の関東大震災で定席(じようせき)が激減し,昭和に入ってからますます他の娯楽物に圧倒された。それでも2代目・3代目伯山,2代目如燕,典山,馬琴が名人芸を披露していたがやがて彼らも没し,太平洋戦争を通過して大島伯鶴(はつかく),神田山陽,神田伯竜,3代目小金井蘆洲なども相次いで没した。戦後も軍談,仇討,忠義,孝行,武芸など講談の伝統的な読み物が占領軍によって禁止され,講談は急速にすたれた。定席も本牧亭1軒となって,以来今日まで講談は不振を続けている(1990年1月,本牧亭も席を閉じた)。貞山,松鯉(しようり),南鶴,貞丈,大阪の南陵らの名が一時消えて講談界は寂しくなったが,現在は東京に宝井馬琴,神田山陽,神田万山,神田伯治,一竜斎貞丈,一竜斎貞水,一竜斎貞山,小金井蘆洲,宝井琴鶴,田辺一鶴,悟道軒(ごどうけん)円玉,大阪に旭堂南陵(きよくどうなんりよう)など名跡は整い,それらの人たちによる講談復興への努力がみられる。しかし今や講談界は,題材・演出などさまざまな面で大きな転換が要請されている。
→寄席
執筆者:関山 和夫
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(太田博 演劇・演芸評論家 / 2007年)
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出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…中国の北宋(960‐1127)の首都汴京(べんけい)(開封),南宋(1127‐1276)の首都臨安(杭州)などの都市の盛り場には常設の演芸場があったが,そこで語られた講談のうち,人情噺などを主とする短編を小説といったのに対し,長編の史談を講史と呼んだ。また講史の筆録を評話,あるいは平話といい,現在《三国志平話》《五代史平話》などの作品が伝わっている。…
…小説,講談,歌舞伎狂言の一系統。実録によった読み物,狂言の意。…
…中国の講談。柳敬亭(1587‐1670?)を始祖としている。…
※「講談」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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