改訂新版 世界大百科事典 「マタラムイスラム」の意味・わかりやすい解説
マタラム・イスラム
Mataram Islam
インドネシア,中部ジャワを中心に1580年代の末ごろから1755年まで存在したイスラム王国。同名のヒンドゥー王国マタラムと区別するため,マタラム・イスラムあるいはイスラム・マタラムと呼んだりする。
建国者セナパティは半ば伝説上の人物で,北東部の海岸地方への遠征をたびたび試みつつ1601年に没した。その子パネンバハン・セダ・イン・クラピアク(在位1601-13)のとき,ジョクジャカルタ南郊のコタ・グデに王宮を造り,東方に領土を拡張しつつ文学の振興にも尽くした。その子スルタン・アグン(在位1613-45)はジャワ史上有数の英主で,25年にはスラバヤを占領したが,2度にわたるバタビア城(オランダ東インド会社の根拠地で現在のジャカルタ)攻撃(1628,29)は失敗に終わった。王は内乱を避けるため外征に転じ,死ぬまでにその版図は中部および東部ジャワのほぼ全土に及んだ。彼は41年にメッカからスルタンの称号を受け,また1633年には従来の太陽暦を廃してイスラムの太陰暦を採用した。しかし絶えまない征服事業は港市の荒廃,水田や灌漑設備の破壊をもたらした。跡を継いだ第4代のアマンクラット1世(在位1645-77)は国内の反対分子を一掃するため,しばしば大量の虐殺を行った。父王と違い,オランダとのあいだに平和を回復したが,トルノジョヨの反乱(1675-79)に際してオランダの保護を求めて王都プレレッドから逃げる途中,病死した。その子アディパティ・アノムはオランダ人に助けられて即位し,アマンクラット2世(在位1677-1703)と称した。彼はオランダ東インド会社とのあいだに一連の条約を結び,会社に貿易上の特権を与えただけでなく,西部ジャワの肥沃なプリアンガン地方や北岸の港市スマランなどを割譲した。これは彼が会社から借りた莫大な負債の返済が不可能だったためでもある。
この間マタラムはスラパティの反乱(1686-1703),第1次ジャワ継承戦争(1703-08),第2次ジャワ継承戦争(1719-23)によってますます弱体化した。会社の援助によって即位したパクブウォノ2世(在位1726-49)は1740年に始まった華僑暴動に乗じて一時会社に背いたが,後に再び帰順し,その代償として43年に北東海岸地方を会社に割譲した。彼は死去に際して王位継承の争いが起こることを憂え,マタラムの全領地を会社に譲渡することを提案したが,会社は処置に困り,遺子の1人をパクブウォノ3世(在位1749-88)として即位させた。先王の弟マンクーブーミは44年以来王室から離反していたが,新王のいとこマス・サイドと結んで戦闘を開始し,ススフナン・パクブウォノの王号を称した。この第3次ジャワ継承戦争(1749-57)は最も激しく,王都の争奪が繰り返されて勝敗が決まらなかったので,会社は調停に乗り出し,55年の協定によりマンクーブーミはスルタン・ハメンクブウォノ1世(在位1749-92)としてジョクジャカルタに都することになった。一方,パクブウォノ3世はスラカルタに都してススフナンの称号を保つことになり,マタラム王国は二分されて消滅した。
執筆者:永積 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報