朝日日本歴史人物事典 「赤松則尚」の解説
赤松則尚
生年:応永32(1425)
室町時代の武将。義則の孫,祐尚の子。通称常陸彦五郎。嘉吉1(1441)年の嘉吉の乱では伯父満祐に従って播磨に下り,城山城で追討軍と戦い落城直前に脱出した。文安1(1444)年,赤松満政の挙兵に加わったが敗れて逃走。同5年細川持常の指示で河内に潜伏中の叔父則繁を殺した。これと交換条件だったものか,持常の口添えを得ていったんは室町幕府への出仕を許されるが,まもなく山名持豊と対立して再び下国,享徳3(1454)年の暮れより赤松政秀と共に西播磨で牢人を集め,鵤荘付近に布陣した。しかし翌年4月山名氏の攻撃を受けて敗走し,翌月,備前鹿久居島で自害した。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報