デジタル大辞泉 「赤松義則」の意味・読み・例文・類語 あかまつ‐よしのり【赤松義則】 [1358~1427]南北朝・室町初期の武将。則祐の子。明徳の乱で山名氏追討に戦功をあげ、旧領美作みまさかを回復、播磨・備前と合わせて三国の守護職を兼ねた。また、侍所の所司となって四職ししきの一つとなった。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「赤松義則」の解説 赤松義則 没年:応永34.9.21(1427.10.11) 生年:延文3/正平13(1358) 南北朝・室町時代の武将。則祐と佐々木導誉の娘の子。播磨,備前,美作守護。蔵人左近将監,兵部少輔,上総介,大膳大夫を歴任。応安4/建徳2(1371)年,父の死により播磨,備前守護を受け継ぐ。一時,摂津有馬郡守護をも兼ねる。山名氏清が幕府に反した明徳2/元中8(1391)年の明徳の乱では一族,家臣を率いて山名氏追討に当たり,弟満則を失ったものの乱後,山名義理の美作守護職を与えられた。また明徳1年以後3度にわたって侍所頭人に任ぜられ,幕閣でも重きをなした。義則の活躍期間は室町幕府の最も安定した時期と重なり,赤松氏の領国支配も総じて安泰であった。また小河氏ら国衙在庁系国人の被官化,奉行人制度の整備など領国支配機構が強化され,一揆の鎮圧や刑事裁判などを通じて荘園内部に守護の力が浸透するようになったのもこの時期であった。 (榎原雅治) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松義則」の解説 赤松義則 あかまつ-よしのり 1358-1427 南北朝-室町時代の武将。延文3=正平(しょうへい)13年生まれ。赤松則祐(のりすけ)の長男。父の死後,応安4=建徳2年赤松惣領職(そうりょうしき),播磨(はりま)(兵庫県),備前(岡山県)の守護職をつぐ。嘉慶(かきょう)2=元中5年侍所の所司となり,四職家のひとつになった。明徳の乱で山名氏追討の幕府軍にくわわって戦功をあげ,美作(みまさか)(岡山県)守護となる。応永34年9月21日死去。70歳。法名は性松。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by