室町前期の武将。一説に1381年(弘和1・永徳1)生れともいう。義則の嫡男。1427年(応永34)播磨・備前・美作の守護であった父義則が死去すると,将軍足利義持は播磨国を幕府領国にしようとするが,結局満祐がこれらを相承する。28年(正長1)足利義教が将軍に決するや,正長の土一揆が京都を襲撃するが,侍所所司であった満祐は奮戦これを退けた。このほか満祐は山城守護ともなり,幕府の中心人物となった。しかし義教は一族の赤松貞村を寵愛して満祐を疎んじ,ちまたでは満祐の領国のうち播磨・美作が召し上げられるとうわさされた。元来義教は将軍専制を目ざし有力守護を圧迫していたが,40年(永享12)一色義貫・土岐持頼を誅殺し満祐に大きな動揺を与えた。41年(嘉吉1)6月24日満祐は関東平定の祝宴と偽り義教を招いて殺害し播磨に下ったが,山名・細川に攻められ9月10日自刃した。ここに赤松惣領家は断絶し領国は山名一族に与えられた。
→嘉吉の乱
執筆者:鳥居 和之
赤松満祐の将軍足利義教弑逆事件は,その後もながく語り伝えられ,これを素材とする文芸作品も二,三にとどまらないが,なかでもとくに名高いのは1705年(宝永2)初演とみられる近松門左衛門作の浄瑠璃《雪女五枚羽子板(ゆきおんなごまいはごいた)》で,いちはやく近松の時代物の三傑作の一つに数えられている。作中,満祐は〈赤沼入道〉,満祐の子教康は〈赤沼判官〉と名づけられており,ひたすらに極悪非道の父子として描かれている。近代に入って,河竹黙阿弥もこれを主題とする《赤松満祐梅白旗(あかまつまんゆううめのしらはた)》という〈活歴劇〉の作品をなし,1879年2月に新富座で初演された。
執筆者:横井 清
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室町中期の播磨(はりま)、備前(びぜん)、美作(みまさか)国守護。義則(よしのり)の嫡子。1427年(応永34)義則死没後その跡職を継ぐ。侍所(さむらいどころ)所司になり、山城(やましろ)国(京都府)守護をも兼ね、中央政界における政治的地位はきわめて高かった。一方、室町幕府の将軍はしだいに専制化の傾向を強めるが、それは6代将軍義教(よしのり)の代に至り頂点に達し、有力守護大名のなかには家督を取り上げられたり、所領を削られるものなどが相次いだ。赤松氏に関しても4代将軍義持(よしもち)は義則の死没後播磨国を満祐から取り上げて一族の持貞(もちさだ)に与えようとし、また将軍義教は1440年(永享12)義雅(よしまさ)(満祐の弟)の所領を没収して一族の貞村に分与するなど赤松氏惣領(そうりょう)家を冷遇した。このような情勢のなかで満祐は1441年(嘉吉1)6月24日将軍義教を京都二条邸に招き宴中に殺害し、播磨に下って幕府に背いた(嘉吉(かきつ)の乱)。しかし赤松氏追討をめぐる幕府内の態勢は整わず、8月に入りやっと山名(やまな)氏を主力とした追討軍の行動が開始された。山名軍は9月に入って播磨国の政治的要衝書写山麓(しょしゃさんろく)の坂本城を、さらに同10日には守護所越部庄(こしべのしょう)城(木)山(きのやま)城を攻略し、満祐、義雅らは自害した。満祐の嫡子教康(のりやす)は伊勢(いせ)国(三重県)に逃れたが殺害され、赤松氏惣領家は没落した。
満祐の守護在職は十数年で、その領国支配は父義則の代に整備された支配機構をさらに整備するなかで進展した。すなわち、義則は1392年(元中9・明徳3)播磨国国衙(こくが)機構をその支配下に収めたが、かつての国衙小目代(しょうもくだい)であり守護被官の小河(おごう)氏は上位守護代、納所(なっしょ)に任ぜられ、段銭(たんせん)、公役などの譴責(けんせき)、徴収など多くの重要な権限を分掌した。なお、下位守護代には宇野氏、納所(2人制)に上原氏、国の検断奉行(ぶぎょう)に浦上(うらがみ)氏が任ぜられている。諡号(しごう)は慈照院殿相全性具。
[岸田裕之]
(榎原雅治)
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1373~1441.9.10
室町中期の武将。播磨・備前・美作3国守護。侍所所司も3度歴任。赤松本宗家義則の嫡子。兵部少輔・左京大夫・大膳大夫。法名性具。1427年(応永34)義則死没直後,将軍足利義持から播磨国を没収されたが,まもなく回復。翌年には播磨の正長の土一揆を鎮定し,守護大名として最も整備された領国支配機構を確立。しかし将軍義教が満祐の弟義雅の所領を没収するなど赤松本宗家を圧迫。そのため満祐は嫡子教康らとはかり,41年(嘉吉元)6月義教を自邸へ招いて殺害。播磨国木山城にこもるが,山名持豊らの追討軍の攻撃で落城,自刃。教康は伊勢国司北畠教具(のりとも)を頼るが殺害され,赤松本宗家は断絶。
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…これより先1423年鎌倉公方(くぼう)足利持氏との間が不和となり出兵を計画したが,持氏が帰順して落着した。ついで27年には赤松満祐の職播磨守護をその一族赤松持貞に与えようとしたため,満祐の反抗にあったが,畠山満家らの尽力で事無きを得た。28年1月18日没。…
…1441年(嘉吉1)赤松満祐が,専制化を強めていた6代将軍足利義教を自邸で殺し,みずからも播磨で敗死した事件。義教将軍就位期は,武力対決を辞さない構えをみせた鎌倉公方足利持氏との対立だけでなく,1428年(正長1)8月には持氏の動きと連動しつつ伊勢国司北畠満雅が,南朝後亀山天皇の皇子小倉宮聖承を奉じて挙兵,さらに10月には,天皇,将軍の代替り徳政を要求し,近江や山城以下の土民が蜂起した(正長(しようちよう)の土一揆)。…
※「赤松満祐」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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