デジタル大辞泉
「足利義量」の意味・読み・例文・類語
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あしかが‐よしかず【足利義量】
- 室町幕府第五代将軍。義持の子。応永三〇年(一四二三)三月、将軍となった。応永一四~三二年(一四〇七‐二五)
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足利義量
あしかがよしかず
(1407―1425)
室町幕府第5代将軍。義持(よしもち)の子。極官は正四位下、参議、右中将。1423年(応永30)父義持が将軍を辞したことにより、征夷(せいい)大将軍を宣下(せんげ)される。酒を好み宴遊をこととし、在職3年で応永(おうえい)32年2月27日没した。父義持が将軍を辞したとはいえ健在で、実権は義持の掌中にあり、義量は虚名を有するのみであった。ために酒色におぼれ、早世するところとなり、その事績はあまりない。法号は長得院鞏山道基(ちょうとくいんきょうざんどうき)。贈左大臣従(じゅ)一位。
[伊藤喜良]
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足利義量 (あしかがよしかず)
生没年:1407-25(応永14-32)
室町幕府5代将軍。4代義持の子。1417年元服。21年父義持に大酒を戒められる。23年3月18日,義持に代わり17歳で征夷大将軍となる。このころ義量は父母と諸所へ参詣遊山に赴く。25年2月27日,在職わずか2年程で病死した。この間,義量は将軍職に備わるのみで,引き続き義持が幕政を執行したため,その事跡には見るべきものがない。
執筆者:鳥居 和之
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足利義量
没年:応永32.2.27(1425.3.16)
生年:応永14.7.24(1407.8.27)
室町幕府第5代将軍。義持の長男,母は日野資康の娘栄子。応永24(1417)年12月元服,正五位下右近衛中将に叙任される。同30年3月,父義持のあとを受けて将軍に任官したが,依然義持が「室町殿」と称され政務を親裁し,義量は全くの傀儡であった。同年10月参議,翌年1月正四位下に上るが,その翌月発病して死去。19歳。その死後はなお義持が親裁し,兄弟もなかったため将軍職は約4年間空位のままであった。長禄1(1457)年,33回忌に左大臣従一位を追贈された。
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足利義量
あしかがよしかず
1407.7.24~25.2.27
室町幕府の5代将軍(1423.3.18~25.2.27)。4代義持の子。母は日野栄子。法名長得院鞏山(きょうざん)道基。正四位下参議・贈従一位左大臣。1423年(応永30)3月18日,父の辞職とともに将軍職就任。義持から大酒を戒められており,酒宴を好んで健康を害したことが知られる。在職わずか2年で病死。
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足利義量 あしかが-よしかず
1407-1425 室町幕府5代将軍。在職1423-25。
応永14年7月24日生まれ。足利義持の子。応永30年父が将軍職を辞したため,その跡をつぐ。実権は父の掌中にあり,実質的な活躍はなかった。酒色におぼれて病を得,在職2年で32年2月27日死去。19歳。法号は長得院。
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足利義量
あしかがよしかず
[生]応永14(1407)
[没]応永32(1425).2.27. 京都
室町幕府5代将軍 (在職 1423~25) 。義持の子。在職3年で病死。
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足利義量
あしかがよしかず
1407〜25
室町幕府5代将軍(在職1423〜25)
義持の子。父の出家後,1423年,17歳で将軍となったが,在職3年で病死した。
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足利義量【あしかがよしかず】
室町幕府5代将軍。4代義持の子。1423年征夷大将軍となるが,引き続き義持が幕政を担当。政務にほとんど携わることなく,2年後に病死した。
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足利義量 (あしかがよしかず)
生年月日:1407年7月24日
室町時代の室町幕府第5代の将軍
1425年没
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