デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「赤松広通」の解説 赤松広通 あかまつ-ひろみち 1562-1600 織豊時代の武将。永禄(えいろく)5年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)竜野(たつの)城主。豊臣秀吉にしたがい,天正13年但馬(たじま)(兵庫県)竹田城主となる。儒者藤原惺窩(せいか)に敬服し援助をおこない,慶長の役で捕虜になった朝鮮の学者姜沆(きょう-こう)の帰国につくす。関ケ原の戦いではじめ石田方に味方し,のち徳川方につくがゆるされず,家康の命により慶長5年10月28日自害した。39歳。姓はのち斎村。別名に広秀,広英。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
世界大百科事典(旧版)内の赤松広通の言及 【藤原惺窩】より …その2年後,慶長の役の捕虜姜沆(きようこう)(朝鮮の朱子学者)と出会い,姜沆から学問的影響を受け,やがて還俗して儒者になった。99年大名赤松広通と姜沆の援助を得て,初めて宋儒の説に従って四書五経に訓点を施したが,広通の死により和訓本は出版されなかった。晩年は京都北郊の市原山荘に隠棲したが,儒者としての志を失うことはなかった。… ※「赤松広通」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 Sponserd by