改訂新版 世界大百科事典 「ミハイ勇敢公」の意味・わかりやすい解説
ミハイ[勇敢公]
Mihai Viteazul
生没年:1558-1601
ワラキア公(在位1593-1601),トランシルバニア公(在位1599-1600),モルドバ公(在位1600)。ワラキア公パトラシュク善公の子ともいわれるが出生は不詳。ワラキア公に即位後,貴族層の利益のために農民の土地移動を禁止して農奴制を強化した。対外的にはオスマン帝国からの独立を図ってオーストリアと同盟を結んだ。1595年ワラキア討伐のオスマン帝国軍をカルガレニCǎlugǎreniの戦で破って勇名をはせた。
その後も再三ドナウ南岸地方を攻撃し,98年オスマン政府と協定を結んで貢納の義務の代償として自治権を獲得した。99年親トルコ的なトランシルバニアに攻め入り,シェリンバルŞelimbǎrの戦で勝利して公位を獲得,また1600年にはポーランドに支持されたモルドバ軍を破って公位に就き,こうして3国の公となった。彼の支配に不満なトランシルバニアのマジャール(ハンガリー)貴族はオーストリアに接近して援助を要請し,その援軍がミラスラウMirǎslǎuの戦でミハイ軍を破り(1600),またポーランド軍もモルドバからワラキアを攻めて彼を退位させた。彼はオーストリアへ赴き,再び同盟を結んでトランシルバニアを攻撃,緒戦に勝利したが,彼の勢力回復を恐れたオーストリア皇帝の命で暗殺された。短期間ながらルーマニア人の居住する3地域を統治した彼は,いまでも彼らの統一のシンボルとして敬慕されている。
執筆者:萩原 直
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報