朝日日本歴史人物事典 「赤松教康」の解説
赤松教康
生年:応永30(1423)
室町時代の武将。満祐の嫡男。通称彦次郎。父満祐は室町幕府の有力大名だったが,守護勢力の抑圧を意図する将軍足利義教は赤松氏でも庶流の満政や貞村を重用し,満祐は永享9(1437)年ごろより疎略な扱いを受けるようになる。同12年,満祐は「狂乱」と称して幕府への出仕をやめ在京奉行富田性有邸に謹慎し,代わって教康が出仕することになった。翌嘉吉1(1441)年6月,満祐・教康父子は大覚寺義昭,結城氏朝討滅の祝と称して京都西洞院二条の自邸に義教を招き,猿楽上演中に叔父則繁らと共にこれを殺害した。その日のうちに一族を率いて播磨に下向し幕府の追討軍に備えたが,8月26日,明石の和坂で敗退,次いで坂本城を失い,本拠城山城も9月10日落城した(嘉吉の乱)。その直前,教康は父の命で脱出し妻の父北畠教顕を頼って伊勢に逃れたが,累のおよぶことを恐れた教顕によって同28日に殺された。一説に自害ともいう。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報