デジタル大辞泉
「城山」の意味・読み・例文・類語
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しろ‐やま【城山】
- [ 1 ] 〘 名詞 〙 敵の攻撃に備えて土塁や城郭を築いた山。また、その名残をとどめた山。地名として各所に残るが、鹿児島市の北東部の城山が特に著名。
- [ 2 ] 鹿児島市の北東部にある丘陵。東麓に島津氏の鶴丸城址がある。明治一〇年(一八七七)の西南の役で、西郷隆盛が自刃した地。標高一〇七メートル。国史跡・天然記念物。
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城山
かつらぎさん
御所市の西部、金剛山北端、水越峠を境として北方に連なる山脈で、南に高く北に低く傾斜する。支峰には天神山・岩橋山があり、北方平石峠・竹内峠を経て万歳山・二上山に続いている。最高峰は標高九五九・七メートル。分水嶺によって大阪府南河内郡河南町・千早赤阪村との境界をなし、東面は断層崖をみせ、所々に扇状地を発達させている。
大和側では鴨山・戒那山・天神山(安位山)の称を用いた。正嘉元年(一二五七)の「私聚百因縁集」には「葛木山ハ即チ金剛山ナリ」とあり、貝原益軒の「南遊紀行」には「葛城(金剛山)の北にある大山をかい那が嶽といふ、河内にては篠峰と号す、篠峰を葛木といふはあやまりなり、葛城は金剛の峰なり」とあり、本居宣長の「菅笠日記」には「古は二つ(現在の金剛・葛城山)ながらを葛城山にてありけんを金剛山とは寺(金剛山転法輪寺)たててのちにぞつけつらん」とみえる。
城山
じようやま
[現在地名]上関町大字長島
長島の北部にあって、さがり松・竜の口の二山に石垣が残る。
「注進案」は「上関西北ニ有之、山形西南之方ばいし山ニ隣し、東北ハ海にして山脊平蕪之所、従東南到西北ニ長三拾弐間幅拾弐間、其狭所ハ唯四間、所々石垣之残石有之、総而地上樹古し、従是西北地卑行三拾間余ニして山端へ至」と様子を記す。
室町時代、能島(現愛媛県越智郡)の村上義顕の子吉敏がこの地に私関を設け、城兵は海峡を通る船より帆別銭を徴収して免符を発行した。天文の末年に大内義長はこれを無視し将軍家献上の米を積載して通過した。
城山
きやま
坂出市の南部にあり、南麓は綾歌郡飯山町にかかる。標高四六二・三メートル、東西・南北とも約七・五キロで、ほぼ台形をした溶岩台地。登山道は北麓の西庄町醍醐の別宮神社からのものが旧本道で、そのほか山麓各地から四道が山頂に通ずる。いずれの道をたどっても眺望がよく、ことに頂上からの眺めは絶佳で、北は備讃瀬戸を眼下に見下ろし、南は遠く阿讃山脈を見晴かすことができ、瀬戸内海国立公園の一角をなす。山頂一帯には旧石器が散布、古代には城が築かれ、式内社城山神社も祀られている。石器は山頂部ゴルフ場周辺のいたるところで採集されているが、なかでも東稜線の西斜面や瀬戸内海に面した城山城の城門跡周辺に顕著にみられる。
城山
しろやま
徳島市街地の徳島駅北側に位置する標高六一・七メートルの独立丘陵。古くは渭山もしくは猪山とも称された。地質は三波川帯に属し、結晶片岩からなる。「阿波志」には渭山とあり、「在府城中山勢孤円、望之如伏豕、深樹蒼翠帯芳河隣海口、蓋古者属井上郷為一海島、潮水環之北注佐古南距八万郷、至今蠣殻往ニ存」とあるように、約六千四〇〇年前の縄文海進期には海中の島であったとみられる。
城山
しろやま
[現在地名]伊万里市山代町久原
標高三四六メートルの円錐形の山で、飯盛城跡がある。久安年間(一一四五―五一)、源四郎大夫直は山ン寺を本城とし、梶谷城(現長崎県松浦市)・和田城(現東山代町)とともに飯盛城を築いたといわれる。直の子囲以後山代氏の城として室町期以後は飯盛城が本城となった。
城山頂上の平地と、その南方下り急斜面を平らにした所を権現屋敷という。今は飯盛社といい町民の氏神がある。さらに南下数十間でシヤアドン屋敷という所があり、なお下ること数間にして勘左衛門屋敷という所がある。
城山
しろやま
[現在地名]鹿児島市城山町
鹿児島市の中心部に横たわる標高一〇七メートルのシラスからなる丘陵。頂上からは鹿児島市街地・鹿児島湾・桜島が一望できる。南北朝時代上山氏の居城があった。慶長七年(一六〇二)島津家久が東山麓に鹿児島城(鶴丸城)を築いたとき同城の一部として整備された。明治一〇年(一八七七)九月、西南戦争の終結に際して当地が西郷隆盛を中心とする薩軍の本営となり、政府軍の総攻撃を受けて西郷以下百数十名が戦死した。
城山
じようやま
[現在地名]安佐北区白木町志路
上梶名にあり、高田郡の「国郡志下調郡辻書出帳」には「城山 城主志路上野之助 壇数四、外名目有之候得共、当時作面相成居申候 高凡四町、廻同拾参町」とある。この地に居を構えた志道氏の居城跡で、「高田郡村々覚書」は城について「高さ七間、横十二間、此城主志道上野介殿御知行二千石之由、元就公御孫子様長州え御出被成候時に御供の由」とある。現在壇が四つ残り、山麓に土居の地名がある。
城山
じようやま
[現在地名]徳山市大字徳山 一ノ井手
東川が平地に流れ込む辺りの西側、金剛山の東端にあり、川を挟んで東方の興元寺山に対する。城山の東麓に沿って須々万、長穂、鹿野(現都濃郡鹿野町)方面への街道が通る。
中世この地域を支配した野上氏の旧城を、戦国期にこの地を領した杉元相が居城としたものと思われる。天正一三年(一五八五)二月九日付の興元寺文書(「寺社証文」所収)に、興元寺の四壁を示して「西は河表城山荒人神森之北」とある。
城山
しろやま
島集落の東方にある標高四〇三・七メートルの山で、土豪川勝氏の城のあった山。島方面から登ると第一の広場に高さ四尺、幅三尺ほどの土塁跡があり、第二の広場には石垣の跡がみえる。かつての登山道は幅一間余の小路で曲折が多く、よそからは望見できないよう仕組まれていた。頂上からは北は市場・今宮、南は下吉田・宮脇まで見渡せる。
城山
しろやま
石橋と馬場の北に古城山があり、通称城山といわれ中世以来の山城跡がある。「丹波志」に「カタツムリケ城」と記しているのは、山容より名付けられたものであろう。また生貫山城ともいうが由来は不明である。
「丹波志」は当城を上林下総守旧栖とし、「古城ハ本丸ト云、続ニ矢之助カ丸ト云所有、掘抜井戸有リ、(中略)城主ノ女子ヲ乳母アヤマツテ井戸エ落ス、乳母逃去ルヲ追レ川エ身ヲ投死ス、其後村エタタリヲ成、其跡ヲ問ト云、其淵ヲ乳母淵ト云」という悲話を伝えている。
城山
じようやま
本郷川の東岸、庄司ヶ嶽の北に位置する山。山代郷八ヵ村が弘治二年(一五五六)に一揆を起こした際にこの山に集合したと伝える。
「注進案」に「当山北面巌石壁立、東は木入道山、西正寺山などいへる高峰に接し、南は積岨丘阜横はり、西ノ丘に一路あり、追原より上り凡五六丁許、弘治年間山代八ケの一揆、此所に屯して諸所を押領し劇に及びし処、吉田より粟屋縫殿丞発向、猶山代地侍神田蔵人丞・三分一式部等被差添追放之、両人え元就公より御奉書頂戴之」とある。
城山
じようやま
[現在地名]大畠町大字神代 中筋
神代の南西、日積(現柳井市)と大畠との境に位置する山。標高三五三・六メートル。
「玖珂郡志」は「其麓、城ト云屋敷アリ」とし、大内家の家臣で、神代系図(「閥閲録」所収)によると岩国兼秀の子で鎌倉時代にこの地に住み神代を名乗った兼高以来の神代家の屋敷跡と伝える。
城山
しろやま
宇佐八幡宮の北方に位置する伝説上の地名。地頭の居城があった地ともいわれる。
「注進案」によれば、この地には天正年間(一五七三―九二)に、刀禰大倉左衛門尉が居住していたが、私欲深く村民に恨まれていた。ある時、広兼兵衛助と口論に及び殺したため、その子松之助はじめ一族に狙われ、嫡子智源を含め七人が殺された。
城山
しろやま
松屋の北西部、中原にある。
「地下上申」に「城御立山」とあり、藩の用材林山となっているが、名称の由来は不明と記す。「注進案」は「昔時、大内家幕下之城跡と申伝へ候得共、正拠等も無御座、年号等相分り不申候、尤山之麓に勘場馬場抔と申地名御座候」と記し、大内家家臣の城かと疑問を残す。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
城山(神奈川県)
しろやま
神奈川県北西部、津久井郡(つくいぐん)にあった旧町名(城山町(まち))。現在は、相模原市(さがみはらし)の西部を占める緑(みどり)区の一地域。旧城山町は1955年(昭和30)川尻(かわしり)、湘南(しょうなん)の2村と三沢村の一部が合併して町制施行。2007年(平成19)相模原市に編入。「城山」の名称は津久井城跡のある城山にちなむ。北部を境川、東部を相模川が流れている。相模川の北部には低山性の、南部には中山性の山地が連なり、川岸には段丘がよく発達している。国道413号が走り、JR横浜線橋本駅からバスが通じる。相模川の谷口にあたる川尻付近から開け始め、山地東麓(とうろく)の川尻石器時代遺跡(国指定史跡)をはじめ、縄文遺跡や古墳がいくつもみられる。江戸時代には相模川は水運に利用され、通船が河口の須賀(すか)浦(平塚市)へ通じていた。また、脇(わき)往還の津久井往来が通じ、久保沢と原宿には定期市が立ち、地元産の絹(川和縞(かわわじま))、木炭(堅炭(かたずみ))などの取引でにぎわっていた。1965年に城山ダムが完成して津久井湖ができ、釣りやボートなどの湖上スポーツ、一帯のクリ・イモ・ウメなどの観光農業、ワラビ・フキなどの山菜狩りが盛んとなり、京浜からの訪客が多い。都市化の進行に伴い、遊休農地対策として市民農園や体験農業を推進している。南方の城山(津久井城跡)は中世期の典型的な山城(やまじろ)。城山ダムと津久井城跡の周辺に県立津久井湖城山公園がつくられている。
[浅香幸雄]
『『城山町史』全7巻(1988~1997・城山町)』
城山(香川県)
きやま
香川県北西部、坂出(さかいで)市と丸亀市にまたがるメサ状の山。標高462メートル。花崗(かこう)岩の上に讃岐(さぬき)岩質安山岩がのっている。周辺の備讃(びさん)瀬戸の眺望がよく、瀬戸内海国立公園の一部。頂上には城跡があり、ホロソ石、マナイタ石、車道(くるまみち)、井戸の跡などから7世紀ごろの朝鮮式山城(やまじろ)の遺構と考えられ国の史跡に指定されている。山頂部にゴルフ場が開設され、登山道路も整備された。山麓(さんろく)部はモモやミカンの果樹が栽培される。JR予讃(よさん)線鴨川(かもがわ)駅から山頂まで徒歩で6キロメートル。
[稲田道彦]
城山(鹿児島県)
しろやま
鹿児島県鹿児島市城山町にあるシラス台地。標高107メートル。国指定史跡。西南戦争の激戦地で、岩崎谷は西郷隆盛(たかもり)自刃の地。一帯はクスの大木やツタ、シダなど亜熱帯植物が繁茂群生し、国の天然記念物。
[編集部]
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城山 (しろやま)
鹿児島市街地の北部に突出するシラス台地の末端で,標高108m。クスノキの巨樹が多く,そのほか照葉樹類,シダ類など暖帯性植物の宝庫で,史跡および天然記念物に指定されている。島津氏18代家久が山麓に居を構え,以後薩摩藩77万石の城下町鹿児島の中心となってきた。しかし藩は外城制を敷いたため,〈城を城とせず,人を城とした〉建前の通り,ここには天守のない屋形造の居館がおかれた。明治になり,西南戦争の際は薩軍最後の拠点として激戦が行われ,西郷隆盛は山地背後の谷で自決した。現在は市内観光の中心をなし,頂上展望台からは眼下に市街地を,彼方に鹿児島(錦江)湾をこえて桜島を一望することができる。
執筆者:服部 信彦
城山 (きやま)
香川県坂出市と一部丸亀市にかかる標高462mのメサ型溶岩台地。瀬戸内海国立公園に属し,山頂に残る朝鮮式山城の遺跡を中心として史跡に指定されている。また山頂平たん面を利用したゴルフ場は,瀬戸内海の眺望のよいことで知られる。この台地の東の山麓一帯はかつての讃岐国府の所在地で,近年遺構の発掘が進められた。また崇徳上皇讃岐配流の地としても知られ,上皇終焉の地には鼓岡神社が建てられている。
執筆者:坂口 良昭
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城山
しろやま
神奈川県北西部,相模原市中部の旧町域。相模川中流の両岸にまたがる。北部は関東山地,南部は丹沢山地の末端にあたる。 1955年川尻村,湘南村および三沢村の一部が合体して城山町が成立。 2007年相模原市に編入。地名は津久井城のあった城山に由来する。中心地区の川尻は相模川の谷口集落で,近世は津久井往還に臨む市場町および水運の終点であり,小倉に河岸 (かし) があった。相模川ではアユ漁が行なわれる。城山ダムのダム湖である津久井湖があり,首都圏の日帰り行楽地となっている。北部にも城山湖 (本沢ダムのダム湖) がつくられ,揚水による発電が行なわれている。京王電鉄相模原線が橋本まで延長されたことにより急速に宅地化が進んだ。国指定史跡の川尻石器時代遺跡がある。
城山
きやま
香川県中部,坂出市と丸亀市の境界にある山。標高 462m。花崗岩上に凝灰岩類を挟んで讃岐岩質安山岩が覆うテーブル型の開析された溶岩台地。朝鮮式山城の跡があり,北麓には国府跡や古墳群が分布。山頂平坦面は眺望のよいゴルフ場に利用され,山腹にはアカマツ林,アカマツ混合林,暖帯性林があり,シダ類,ハスノハカズラ,ユウスゲ,ムギランなどがみられる。山麓には住宅団地が並びミカン畑が広がる。北麓には城山温泉がある。山頂からは北方,綾川沿岸に条里制の遺構を展望することができる。山頂へドライブウェーが通じる。史跡に指定され,一帯は瀬戸内海国立公園に属する。
城山
しろやま
鹿児島県中部,鹿児島市の中心市街地の北部にあるシラスでできた丘陵。標高 107m。 1877年西南戦争の激戦地となったところで,現在は公園になっている。山麓に島津家久の鶴丸城の堀と石垣が現存。西南の役のとき西郷隆盛が本営として5日間起居した洞窟や隆盛終焉の地などの旧跡があり,多種の暖地性植物が自生する。全域が天然記念物,史跡。頂上からの眺望はよく,特に鹿児島湾をへだてた桜島の展望にすぐれる。
城山
しろやま
薩摩琵琶の曲名。作詞勝海舟,作曲西幸吉。西の琵琶に感銘した勝が,西郷隆盛の死をいたんで作詞し,作曲を依頼。 1886年歌人の高崎正風邸で初演した。江戸城明渡しの際西郷と面談した勝と,西郷の私学校に学び西南の役に従軍した西の2人の作品だけに,深く鎮魂の情にあふれる傑作として伝えられる。のちに西道仙作の「孤軍奮闘…」の詩が挿入された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
しろやま【城山】
鹿児島県鹿児島市城山町の市街中心部に横たわる標高107mのシラスからなる丘陵。南北朝時代の豪族上山氏の居城跡で、その遺構として土塁が北西部に残っている。1601年(慶長6)、18代藩主島津家久が東側山麓に居館(鶴丸城)を造ったため、城山は麓も山頂も鶴丸城に組み込まれ、鶴丸城の背後を守る山城となった。明治になって1877年(明治10)の西南戦争では、敗走した薩軍が城山を確保して最後の抵抗を試みるが、政府の総攻撃を受け、西郷隆盛以下159人が戦死。城山は植物学上も貴重な所で、クスノキの大木をはじめ、典型的な照葉樹林を形成しており、林の中には特色のあるシダ類が自生。1931年(昭和6)に国の史跡、および天然記念物に指定された。現在は公園として整備され、クスノキ、シダ、サンゴジュなど600種以上の亜熱帯植物が自生し、遊歩道沿いに観察することができる。西南戦争最後の戦地として、西郷軍司令部の置かれた洞窟(通称、西郷洞窟)、西郷隆盛終焉の地など西南戦争関連の史跡も残る。JR九州新幹線ほか鹿児島中央駅から鹿児島市電「水族館口」下車、徒歩約10分。
きやま【城山】
香川県坂出市西庄町・川津町・府中町、丸亀市飯山町にまたがる山城跡。城山は標高462m、坂出市の南東と丸亀市飯山町との境界上に盛りあがる溶岩台地である。663年(天智天皇2)の白村江(はくすきのえ)の戦いに敗れた朝廷は、朝鮮勢力の侵攻に備えて、九州北部から瀬戸内沿岸に山城を築いた。城山山頂一帯には、天智天皇の時代(7世紀後半)に屋島城や筑紫国大野城などとともに構築された朝鮮式山城と推定される遺構が残っており、1951年(昭和26)に国の史跡に指定された。山頂の平坦部はすべて城郭をなし、南北約2km、東西約1.5kmという大規模なものである。「車道(くるまみち)」と呼ばれる帯状の平坦地が2段あり、上の車道は頂から少し下がったところを3.4kmにわたって取り巻き、100mほど下方に下の車道がめぐっている。山中には「マナイタ石」と呼ばれる石造加工物や城門の大柱の礎石に使われた「ホロソ石」、水門のある石塁などの遺構が点在している。JR予讃線ほか鴨川駅から車で約15分。
出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報
城山[町]【しろやま】
神奈川県北部,津久井郡の旧町。相模川が相模原へ出る地にあり,中心集落の川尻は舟運の終点,市場町として発達。近年は観光農業が盛ん。1965年城山ダムが完成,西隣の相模原市にまたがる人造湖の津久井湖は行楽地になっている。2007年3月,津久井郡藤野町と相模原市へ編入。19.90km2。2万3060人(2005)。
→関連項目緑[区]
城山【しろやま】
鹿児島県鹿児島市街北部にある丘(天然記念物・史跡)。標高108m。1602年山麓に島津家久が館(鶴丸城)を築いた。1877年西南戦争の際には西郷隆盛軍が最後の根拠地とした。約600種の暖帯性植物が生育,展望台,遊園地があり,市街と鹿児島湾の展望にすぐれる。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
城山
(大分県佐伯市城山)
「おおいた遺産」指定の地域遺産。
佐伯市街のほぼ中央にあり、標高142m余。1606(慶長11)年、山頂に佐伯城が築城されたが、天守はまもなく焼失。三の丸の櫓門、山頂の石垣が現存する
城山(ホルトノキと城山貝塚)
(徳島県徳島市徳島町城内)
「とくしま市民遺産」指定の地域遺産。
徳島駅の北側に徳島城があった城山(標高61m)がある。ホルトノキは「市の木」に制定され、麓には城山貝塚がある
出典 日外アソシエーツ「事典 日本の地域遺産」事典 日本の地域遺産について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の城山の言及
【伊江島】より
…南側の海岸は砂丘も見られ,港湾の施設があって対岸の本島の本部町との間に定期のフェリー船が通じ,観光客が多い。島の最高点は中央部東寄りの標高172mの城(ぐすく)山で,基盤の古生層チャートからなる。周囲の平たんな台地に塔状に屹立(きつりつ)するため一段とめだち,〈伊江島タッチュー〉と呼ばれ,眺望がよく航海の目標となる。…
【坂出[市]】より
…479m)の坂出側には四国八十八ヵ所81番札所白峰寺と崇徳上皇の白峰陵がある。南部には城山(きやま)(463m)があり,県下最初のゴルフ場と城山城跡がある。南西端にある[飯野山](422m)は讃岐富士とも称される美しい形のビュート(孤立丘)で,以上三つとも溶岩台地である。…
※「城山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」