1467年(応仁1)~1477年(文明9)の11年間にわたり、細川勝元(ほそかわかつもと)と山名持豊(やまなもちとよ)(山名宗全(そうぜん))とをそれぞれの大将として、諸国の大・小名が東西両軍に分属し、京都を主戦場として戦った大乱。応仁・文明(ぶんめい)の乱ともいう。
[今谷 明]
室町幕府は基本的には、守護領国制を基盤とする有力守護大名の連合政権的性格をもつが、将軍権力も奉行人(ぶぎょうにん)、奉公衆(ほうこうしゅう)など独自の権力基盤をもち、有力守護の勢力均衡のうえに幕政を展開していた。将軍親裁権を最高度に発揮した将軍義満(よしみつ)の代を過ぎると、幕政は主として三管領(さんかんれい)、四職(ししき)家を中心とする有力守護大名で構成される重臣会議が政務議決機関として機能していたが、嘉吉(かきつ)の乱(1441)を経過すると、大名間の均衡が大きく崩れてきた。1433年(永享5)に斯波義淳(しばよしあつ)が死去するや、将軍義教(よしのり)が家督相続に介入、一族の内紛を誘発させて同氏を弱体化し、嘉吉の乱によって赤松氏も没落。1454年(享徳3)には畠山(はたけやま)氏も当主持国(もちくに)の家督継承権をめぐって内紛が起こった。すなわち、幕政に参与しうる有力大名家が淘汰(とうた)された結果、重臣会議の機能は麻痺(まひ)するに至ったのである。ここにおいて将軍の生母日野重子(ひのしげこ)や、乳人(めのと)今参局(いままいりのつぼね)など側近の女性が幕政に容喙(ようかい)する現象を生じ、今参局が処刑されてのちは、政所執事(まんどころしつじ)伊勢貞親(いせさだちか)や相国寺(しょうこくじ)蔭凉軒主(いんりょうけんしゅ)季瓊真蘂(きけいしんずい)ら守護家でない側近勢力が台頭して、幕政は混乱状態に陥った。加うるに、1441年(嘉吉1)以来数年ごとに徳政一揆(とくせいいっき)が頻発して、幕府の財政基盤である土倉(どそう)、酒屋などの経営に打撃を与えた。地方では関東の幕府離脱、戦乱長期化や、国人(こくじん)層による幕府直轄領、五山禅院領を含む荘園(しょうえん)押領が相次ぎ、幕府の財政基盤も不安定の度を加えていったのである。このような状況のなかで、山名氏は嘉吉の乱によって赤松氏の遺領を継承して、山陰山陽にわたる7か国の分国をもつ有力守護に成長し、細川氏もまた畿内(きない)、四国、山陽に8か国の分国を、一族の内紛もなく無傷に維持し、この両守護家が、瀬戸内制海権を両分する形で幕政の主導権を争う形勢となった。この両勢力の領袖(りょうしゅう)は、赤入道とよばれた前侍所頭人(さむらいどころとうにん)の山名持豊と、管領細川勝元である。
前記のような幕政の動向、有力守護の勢力関係を背景とはしつつも、乱勃発(ぼっぱつ)の直接的原因は別のところにあった。侍所頭人とともに京都を軍事的に押さえる要職であった山城(やましろ)守護職は、1449年(宝徳1)以来、畠山氏が兼務していたが、1450年畠山持国は、実子の義就(よしなり)に所領を譲り、養子の政長との間に対立が生まれた。政長は細川勝元を頼り、その結果1460年(寛正1)に義就は幕府を追放され、追討を受ける身となり、大和(やまと)に亡命した。そのためその後畠山氏の家督と山城守護を継承した政長に対し、義就は激しい敵意をもち、家督と山城守護奪回の機をねらっていたのである。この畠山氏内訌(ないこう)に、細川勝元は終始政長を支持し、山名持豊も当初は勝元に従ってはいたが、幕軍を相手に孤軍奮戦する義就の軍事的才幹に注目し、ついには義就派に回ることになる。乱の直接的契機としては、ほかに斯波義廉(しばよしかど)・義敏(よしとし)の対立、実子義尚(よしひさ)の誕生による将軍義政(よしまさ)と跡目義視(よしみ)の反目があるが、乱の経過からみてさして重要な意味はもたない。両軍対立の基本はあくまで畠山義就・政長の争いと、それに加担する山名、細川らの有力守護家の角逐である。
[今谷 明]
1466年(文正1)9月、将軍義政は伊勢貞親、季瓊真蘂らの意見具申に基づいて、斯波家の家督を義廉から義敏に更迭し、あわせて足利義視を暗殺しようとして諸大名を刺激した。義廉派の持豊、義視派の勝元は分国の軍勢を京都に集中し、貞親、真蘂は近江(おうみ)(滋賀県)に逃亡した。これが文正(ぶんしょう)の政変とよばれる事件で、義政の側近政治は崩壊し、幕閣は勝元、持豊が激しく対立抗争する主導権争いの場と化した。京都への兵力集中は持豊派のほうが迅速で、同年末には驍将(ぎょうしょう)畠山義就の大軍が大和から入京するに至り、持豊は義政に強請して斯波義廉を越前(えちぜん)、尾張(おわり)、遠江(とおとうみ)3国の守護職に還補せしめ、1467年(応仁1)1月には義就が畠山氏の家督に返り咲いた。このため窮地に陥った政長は同月18日、山城上御霊(かみごりょう)において義就軍に挑戦、ここに前後10年に及ぶ戦乱の火ぶたが切られた。しかし、緒戦に立ち遅れた政長はあえなく敗走し、持豊派は完全に幕府を掌握した。勝元は、戦勝気分に油断している持豊派のすきを縫って地方で反撃に転じ、分国軍勢を入京させる一方、赤松政則(あかまつまさのり)に播磨(はりま)、備前(びぜん)、美作(みまさか)3国を衝(つ)かしめて山名氏を牽制(けんせい)、また斯波義敏には越前(えちぜん)を、武田信賢(たけだのぶかた)には若狭(わかさ)を、土岐政康(ときまさやす)には伊勢と持豊派守護の分国に侵入させ、同年5月には幕府奉公衆の援助を得て花の御所を占拠することに成功した。この将軍邸占拠で勝元は緒戦の不利を取り戻し、やむなく持豊方は堀川(ほりかわ)の西に陣を構えた。以後、勝元一派を東軍、持豊派を西軍と称することとなった。東軍に参加した守護は細川氏、畠山政長、武田信賢、京極持清(きょうごくもちきよ)、赤松政則、富樫政親(とがしまさちか)、斯波義敏らで、西軍は山名氏、畠山義就・義統(よしむね)、斯波義廉、六角高頼(ろっかくたかより)、一色義直(いっしきよしただ)、土岐成頼(しげより)、河野通春(こうのみちはる)、大内政弘(おおうちまさひろ)という面々で、九州と信濃(しなの)(長野県)以東の大名は加わっていない。東軍は将軍を擁する有利な立場から、西軍諸大名の守護職を逐次剥奪(はくだつ)し、自派の一族や大名に補任(ぶにん)したが、西軍大名も実力をもって新任守護に抵抗し、戦況は長期化、膠着(こうちゃく)状態の様相となった。
1467年(応仁1)5月26日、京都市街戦が決行される。東軍が一色義直邸を包囲して戦火が拡大し、一時は勝元側が優勢にみえたが、同年秋に山名、大内の大軍が入京したため西側が盛り返し、西軍は将軍邸、相国寺など洛中(らくちゅう)の要所を占拠して東軍を洛外へ追い払った。なかんずく畠山義就軍は東寺から西岡(にしおか)一帯を占拠し、自ら「山城守護」と称して乱終息時まで10年近く洛南地方を実力で支配した。1468年には洛外の主要社寺もほとんど兵火にみまわれた。これらは「足軽(あしがる)」「疾走(しっそう)の徒」とよばれる傭兵(ようへい)集団の活動によるもので、東軍では侍所(さむらいどころ)所司代(しょしだい)多賀高忠(たがたかただ)の配下骨皮道賢(ほねかわどうけん)、西軍では山城土豪御厨子(みずし)某といった人々が彼らを差配した。この内乱は、傭兵集団が主要戦力を構成した最初の大規模な戦乱であるといわれる。東軍16万、西軍11万という『応仁記』の両軍の動員兵力には誇張があるとしても、各荘園、郷村からは荘官、在地土豪層を中心に騎馬、半甲冑(はんかっちゅう)、人夫で構成される兵団が徴発され、さらに京都周辺では京中悪党、疾走の徒など足軽傭兵が補充された。後者の活躍が目だったのは、地方の農民軍隊では長期の在京が困難だったからである。
3年目を経過すると、戦局の中心は地方に移ったが、1471年(文明3)、越前守護代朝倉孝景(あさくらたかかげ)の幕府帰参は東軍の優勢を決定づけ、1473年に両軍の総帥持豊と勝元が相次いで死去すると、両軍首脳には厭戦(えんせん)気分がみなぎった。ことに山名氏惣領(そうりょう)の政豊が東陣に帰参し、幕府から山城守護に補任されるに及んで、細川、山名両氏の対立という初期の構図はまったく色あせ、本来の立役者政長・義就の両畠山氏が両軍を代表した形で徹底抗戦を叫ぶ状況に変化したのである。かくして1477年(文明9)9月、畠山義就が長期にわたり占領していた山城を退去し、同年11月に大内政弘、土岐成頼らが分国に引き上げることにより、京都を中心とする戦乱はようやく収束にこぎ着けた。政弘、成頼らは乱前に保持していた守護職を還補されたが、義就のみはついに赦免されず、実力で地盤を構築するほか存立の道をとざされたため、奮迅の勢いで河内(かわち)の政長軍攻撃に乗り出す。したがって、河内、大和、南山城ではなお戦火が続行、拡大し、義就は同年中には完全に河内を制圧、大和を勢力下に収めて、1482年(文明14)には南山城に侵入、翌年には宇治川以南を実力占拠し、やがて山城国一揆を引き起こす。
[今谷 明]
応仁の乱をこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息するのは1485年(文明17)の山城国一揆成立であり、畿内(きない)の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。以後、大乱に参加した諸大名は、幕府の権威による分国支配が困難となり、実力による領国統治権の確保の必要性に迫られることになった。また幕府の実質的支配領域、すなわち幕府の威令の届く範囲も漸次縮小され、1487年(長享1)の六角征伐、1493年(明応2)の河内出陣を通じて幕府の動員兵力は畿内近国の守護軍と奉公衆に限られるようになり、幕府の裁判権行使も畿内に限定されてくる。このように事実上、畿内政権と化した室町幕府を、実力で押さえるようになるのが細川氏であった。同氏は他の大名と異なって、家督紛争を起こさず族的結合を維持し、乱中乱後を通じて首脳部が京都に常駐し、1493年4月の政変で将軍の廃立を強行し、政敵畠山政長を暗殺してからは完全に幕閣の主導権を掌握した。細川氏が畿内において戦国大名化の道を踏み出したこの年を、戦国時代の始まりとする説が有力である。政所執事、侍所開闔(かいこう)、右筆方(ゆうひつかた)など幕府の諸機構は、事実上、細川氏の行政機関化するに至る。
地方では荘園制の解体が決定的となり、守護代層や有力国人が台頭し、彼らのうちには自ら戦国大名化する者も出現した。荘園制と在地領主制を基軸とする中世国家の枠組みが最終的に崩壊するのも、この乱の重要な結果である。したがって、日本の歴史を二分する大きな時代転換の契機をこの大乱に求める説が有力である。一方、戦争による混乱にもかかわらず、義政の浄土寺山荘を中心に東山(ひがしやま)文化という公家(くげ)、武家、禅の融合による新しい思潮、芸術が発生し、戦乱を地方に避けた僧侶(そうりょ)や公卿(くぎょう)たちによってそれが地方に伝播(でんぱ)された。この文化は、庶民の生活様式のなかに定着するという重要な一面をもち、近世庶民文化の源流をなす意義をもつ。また、戦火を免れた奈良は京都に次ぐ大都市として発展し、一条教房(いちじょうのりふさ)が乱を避けた土佐(とさ)中村や、京の禅僧が多く流寓(りゅうぐう)した周防(すおう)山口、出雲(いずも)富田(とだ)は、戦国大名の庇護(ひご)とも相まって、西国における新興都市として文化の中心地となっていった。
[今谷 明]
『鈴木良一著『応仁の乱』(岩波新書)』▽『永島福太郎著『応仁の乱』(1968・至文堂)』▽『稲垣泰彦著「応仁・文明の乱」(『岩波講座 日本歴史7 中世3』所収・旧版・1963・岩波書店)』
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…在国又代は織田常竹であり,以後守護代・又代ともに織田氏一族が独占した。斯波氏は国衙機構を掌握,応仁の乱前後には,荘公を問わず国内全域の公田を対象とする守護独自の段銭を賦課していた。この時期,守護所は鎌倉街道沿いの下津(おりづ)におかれていた。…
※「応仁の乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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