朝日日本歴史人物事典 「赤松満政」の解説
赤松満政
生年:生年不詳
室町時代の武将。則祐の孫,満則の子。大河内と号す。宮内少輔,刑部少輔,刑部大輔,上総介,播磨守を歴任。室町幕府将軍足利義持・義教の近習を勤めた。特に義教の信任は厚く,諸大名と義教の連絡役として重きをなした。のみならず諸大名に対する政策決定にも関与し,義教の専制政治を支えた側近のひとりであった。そのため恨みを買うこともあり,永享5(1433)年の山門衆徒による強訴の際には賄賂にまみれた不忠の徒と指弾されている。赤松氏惣領満祐との関係も不調で,応永34(1427)年の満祐播磨下向事件でも,嘉吉1(1441)年の義教弑逆事件(嘉吉の乱)でも行動を別にした。ことに後者では満祐追討軍に加わって功があり,乱後,美嚢,明石など東播3郡の分郡守護職を与えられた。しかし文安1(1444)年,ゆえなくこれを召し上げられたため播磨に下り10月に挙兵したが,まもなく山名持豊(宗全)に敗れ,翌年3月,幕府方に寝返った一族の持家により摂津有馬で討たれた。歌人,能書家としても知られる文化人で,将軍側近時代は室町御所や諸寺社での和歌会,連歌会,蹴鞠会にしばしば参加し,諸大名や公家たちとも交流があった。また嘉吉の乱では幕府方についたが,一族のこもった城山城落城の際,満祐の弟義雅より一子千代丸を託され保護,嫡流の血脈を守った。敵も少なくなかったが,むしろ事理を通す教養人だったと思われる。
(榎原雅治)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報