中国で,道教の経典を集成したものをいい,仏教の〈一切経〉〈大蔵経〉に相当する。現行の《道蔵》は明の《正統道蔵》と《万暦続蔵》とを合わせたもので,512函,5485巻ある。明の成祖は永楽年間(1403-24)に正一教の第43代天師(教主)張宇初に道蔵の編纂を命じた。この事業は北京で継続され,英宗の代1444年(正統9)にようやく刊行にこぎつけ翌年完成した。これが《正統道蔵》480函,5305巻であり,上諭を付して北京の白雲観を初め各地の道観に下賜された。次いで1607年(万暦35)に《万暦続蔵》32函,180巻が続刊された。今日一般に見られるのは,1923年から26年にかけて上海の涵芬楼が白雲観本を底本に影印した上海版の《道蔵》である。なお,《正統道蔵》の原本は江戸時代に九州の佐伯毛利藩に将来され,のちに幕府に献上された。これは現在宮内庁書陵部に蔵されるが,一部散逸して4808巻を存するのみである。
道蔵編纂に至る歴史は古く長い。いわゆる道教は,後漢末の張角の太平道と張陵の五斗米道(ごとべいどう)に始まるとされるが,当時は《太平清領書》などごく少数の道書が存するのみであった。下って4世紀中ごろ,東晋の葛洪はその著《抱朴子》遐覧篇の中に自身の目睹した道書を列挙しているが,その数はいまだ200余にすぎない。道教経典の数が飛躍的に増大するのは,仏教教理の強い影響下に道教教理の形成展開が精力的に進められた5世紀以降初唐に至る期間であった。《隋書》経籍志には377部,1216巻にのぼる道経の存在が記されている。唐代になると,帝室が厚く道教を保護したことや道教教理が一応の完成をみたこともあって,多量の道経を結集して経蔵を作ろうという機運が熟した。道教の熱心な信奉者であった玄宗は,開元年間(713-741)に最初の《道蔵》を編纂させて《三洞瓊綱(けいこう)》と命名した。その数3744巻と伝えるが,安史の乱に散逸した。
宋代に入ると,真宗の命によってまず王欽若が《宝文統録》4359巻を編み,続いて1019年(天禧3)には張君房がその欠を補って《大宋天宮宝蔵》4565巻を完成させた。このとき,張君房がその精華を抄出して編んだ〈小道蔵〉ともいうべき《雲笈七籤(うんきゆうしちせん)》120巻は,宋以前の道教を知るうえで不可欠の書である。その後,政和年間(1111-17)には《万寿道蔵》5481巻が刊行されて各地の道観に下賜されたが,これは印刷に付された最初の《道蔵》である。金代には《大金玄都宝蔵》6455巻が,次いで元代には全真教の祖師丘処機(長春真人)の発願で《元玄都宝蔵》が刊行されたが,その数7800余巻の多きに達した。その後,道仏論争に敗れた結果,《元玄都宝蔵》は1280年(至元17)に他の道書ともども焼棄され,多くの道書が失われた。《正統道蔵》はその後をうけて再編纂されたものである。《万暦続蔵》以後は新たな道蔵編纂は行われなかったので,現行《道蔵》には明末以降の新しい道書は収められていない。これを補うものとしては,明末に成都で刊行された《道蔵輯要》などがある。
現行《道蔵》は全体を洞真部,洞玄部,洞神部の三洞と太玄部,太平部,太清部,正一部の四輔との七部に大別し,さらに三洞の中をそれぞれ本文,神符,玉訣,霊図,譜録,戒律,威儀,方法,衆術,記伝,讃頌,表奏の十二部に細分する。この三洞四輔の分類は,隋・初唐の道教教理書《玄門大義》などが,成立の歴史的背景を異にする道教の諸教理を体系化する際に立てた体例をそのまま襲用したものである。その中心となる三洞は,5世紀中ごろ宋の陸修静が《大洞真経》を所依の経典とする上清派(茅山派)の立場からする教相判釈(きようそうはんじやく)を示したもので,成立が古く呪術的性格の強い《三皇経》など道教教理の最下層をなす経典を洞神部に,ついでやや新しい層をなす《霊宝経》などを洞玄部に,そして仏教教理を反映した最新の層をなす《大洞真経》などを洞真部に配する。
一方,道教の最高神は,後漢から東晋頃までは老子を神格化した太上老君であったが,5世紀には老子の説く〈道〉を神格化した太上道君が,6世紀には元始天尊が加上されていき,これに対応して宗教的悟りの境位も太清境の上に上清境,玉清境が次々と加えられた。隋・初唐の道教教理学は仏教教理学に刺激されて,かかる道教教理の歴史的展開の跡を共時的な相において体系化することを目ざし,洞真部は玉清境における元始天尊の所説で大乗聖人の教え,洞玄部は上清境における太上道君の所説で中乗真人の教え,洞神部は太清境における太上老君の所説で小乗仙人の教えという教相判釈を立てた。これは隋・初唐段階での道教教理の歴史的一範型に過ぎないが,現行《道蔵》はこれをそのまま襲用して三洞四輔分類を行っている。しかし,唐以後の道教教理の展開はみずから別種の範型を必要としており,これが現行《道蔵》に見られる分類原理と実際の内容との乖離(かいり)をもたらす主要な原因となっている。
執筆者:麦谷 邦夫
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道教の経典を集成したもので、仏教の一切経(いっさいきょう)、大蔵(だいぞう)経に相当する。道教の歴史は後漢(ごかん)末の太平道(たいへいどう)、五斗米道(ごとべいどう)から発するが、仏教の影響下にその教理形成が進展し、経典の数が飛躍的に増加したのは、5世紀以降初唐に至る時期であった。その結果、唐の玄宗の開元(かいげん)年間(713~741)に最初の道蔵『三洞瓊綱(さんとうけいこう)』が編纂(へんさん)された。以後、道教の歴史的展開に伴う経典の増加や、たび重なる戦乱による道蔵の散逸に対応して、宋(そう)・金・元にわたって数次の道蔵編纂と刊行が行われた。現行の道蔵は1444年(明(みん)、正統9)に刊行された『正統道蔵』480函(かん)、5305巻と、1607年(明、万暦35)に続刊された『万暦(ばんれき)続蔵』32函、180巻とをあわせたものである。なお今日一般にみられるのは、1923年から26年にかけて上海(シャンハイ)の涵芬楼(かんぶんろう)が北京(ペキン)の白雲観蔵本をもとに影印した上海版の道蔵である。
現行道蔵は、全体を洞真(とうしん)部、洞玄(とうげん)部、洞神(とうしん)部の三洞と、太玄(たいげん)部、太平(たいへい)部、太清(たいせい)部、正一(しょういつ)部の四輔(しほ)との七部に大別し、さらに三洞それぞれのなかを本文、神符、玉訣(ぎょくけつ)、霊図、譜録(ふろく)、戒律、威儀(いぎ)、方法、衆術、記伝、讃頌(さんしょう)、表奏の12類に細分する。この三洞四輔の分類は、呪術(じゅじゅつ)的な基盤のうえに徐々に道家哲学や仏教教理などを加えて歴史的に形成されてきた道教教理を、洞真部は元始天尊所説の大乗、聖人の教え、洞玄部は太上(たいじょう)道君所説の中乗、真人の教え、洞神部は太上老君所説の小乗、仙人の教えとし、これに四輔を補助的に配して共時的に体系化しようとした初唐の道教教理学の教相判釈に基づくもので、あくまでも歴史的限定性をもった分類範型であった。したがって唐代では教理体系と分類原理との間に高い整合性が存したが、その後の道教教理の展開はおのずから別種の分類原理を必要としている。現行道蔵の経典分類が混乱しているのは、たび重なる散逸・再編の影響もさることながら、この点に最大の原因がある。
[麥谷邦夫]
『窪徳忠著『道教史』(1977・山川出版社)』▽『福井康順著『道教の基礎的研究』(1952・書籍文物流通会)』
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… 中国先秦時代の儒者が彼らの奉ずる〈先王の道〉の教を〈道教〉とよんでいたという《墨子》の記述は,後の漢・魏の時代においても儒教を〈道教〉とよんでいる事例の幾つか見えていること,たとえば《尚書》湯誥篇の孔安国伝〈道教を安立す〉,《三国志》呉書の陸遜伝〈道教を熙(ひろ)め隆(さか)んにす〉など,からも裏づけられるが,儒家の自称する〈道教〉を似て非なるものときびしく批判する《墨子》と同じく彼らの道教を邪偽であると激しく攻撃しているのは,魏・晋の時代に成立して張魯の天師道教団の幹部教育用の講義録であろうと推定されている《老子想爾(そうじ)注》である。〈真道蔵(かく)れて邪文出(い)ず。世間の常の偽伎は道教と称するも皆な大偽にして用うべからずと為す。…
※「道蔵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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