越ヶ谷町(読み)こしがやちよう

日本歴史地名大系 「越ヶ谷町」の解説

越ヶ谷町
こしがやちよう

[現在地名]越谷市越ヶ谷・越ヶ谷一―五丁目・こし谷本町やほんちよう御殿町ごてんちよう柳町やなぎちよう弥生町やよいちよう東柳田町ひがしやなぎだちよう赤山町あかやまちよう・赤山町四―六丁目・元柳田町もとやなぎだちよう中町なかまち東越谷ひがしこしがや谷中町やなかちよう宮前みやまえ宮本町みやもとちよう

現越谷市のほぼ中央部に位置し、大部分は元荒川右岸、一部が左岸にある。北は大沢おおさわ町、東は花田はなた村および荒川(元荒川)の旧河道で画されて増林ましばやし村・小林こばやし村、南は瓦曾根かわらそね村、西は四町野しちようの村・谷中村・七左衛門しちざえもん村。南北に日光道中が貫き、道中に沿って家並が連なり、大沢町とともに越ヶ谷宿を構成していた。当地からは赤山道(鳩ヶ谷を経て赤山陣屋へ)のほか岩槻への道、吉川よしかわ(現吉川町)への道も通じている。近世初期までは越ヶ谷郷のうち四町野・花田・瓦曾根の入組地であったが、慶長年間(一五九六―一六一五)の奥州道(のちの日光道中)の整備により新たに宿村として造成され、郷名をとって町名としたと伝える。永禄五年(一五六二)と推定される戌八月二六日の北条家印判状(本田文書)に「越谷・舎人」とみえ、両郷は大郷であると記されている。なお千葉大系図(房総叢書)に野与党箕勾為経の子で当地名を負うとみられる古志賀谷二郎為基が載る。越ヶ谷郷は越ヶ谷町はじめ元荒川と綾瀬川の間に挟まれた現出羽でわ地区・荻島おぎしま地区、それに現岩槻市釣上かぎあげまでの広い地域をさしたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報