大沢町
おおさわちよう
[現在地名]越谷市大沢一―四丁目・大沢・北越谷一―二丁目・同四丁目
越ヶ谷町の北、元荒川の左岸に位置し、南北に貫く日光道中に沿って家並が連なる。ここから野田道とも下妻道とも称された道が東方に通じる。近世初期までは鷺代(鷺後)や高畠(高畑)に集落があったが、慶長年間(一五九六―一六一五)の奥州道(のちの日光道中)の整備に伴い越ヶ谷宿の加宿として取立てられ、道中沿いに新しく家並が造成されたと伝える。のち越ヶ谷町・当町の伝馬機構が合体され、交通上では両町併せて越ヶ谷宿と称された。
中世には下総国葛飾郡下河辺庄に属したと伝える(大沢町古馬筥)。大沢町起立従承応元禄迄往還諸御用留(福井家文書)によると、寛永六年(一六二九)の検地帳には「武蔵国騎西郡新方領大沢村」とあったといい、「其後承応之末明暦之前ニ駅場ニ成」と記す。この頃伝馬機構が合体され越ヶ谷宿を構成することになったのであろう。田園簿では埼玉郡に属して大沢町とみえ、高は田方三三八石余・畑方四九〇石余、ほかに野銭永一〇二文がある。幕府領で以後幕末まで変化はない。越ヶ谷領に属した(風土記稿)。前掲御用留に載せる明暦二年(一六五六)の高役免除証文によると当町の免除高は八二二石余。
大沢町
おおざわちよう
[現在地名]東区内平野町一―二丁目
内骨屋町筋を挟んで内平野町二丁目の東に延びる両側町。東部を御祓筋が南北に通る。もと東隣亀山町とともに檜物屋町と称した(初発言上候帳面写)。檜物屋町は「私心記」天文四年(一五三五)五月二一日条に「新屋敷檜物屋町喧嘩」とみえる。「天文日記」同五年四月二六日条によれば、石山本願寺寺内町人衛門四郎の跡職をめぐり、衛門四郎の女婿である同町又四郎と、北町屋に住む衛門四郎の弟与三郎・源六との間に訴訟があり又四郎が勝訴している。同書同年六月二四日・七月一三日条によれば、従来新屋敷檜物屋町は北町屋に排水していたが、前年北町屋が土盛りをしたため、六月の雨で水がたまり往来が困難になった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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