平田篤胤(読み)ヒラタアツタネ

デジタル大辞泉 「平田篤胤」の意味・読み・例文・類語

ひらた‐あつたね【平田篤胤】

[1776~1843]江戸後期の国学者国学の四大人の一。秋田藩士。旧姓、大和田。号、気吹之舎いぶきのや・真菅屋。通称、大角(大壑)。脱藩して本居宣長没後の門人と自称。宣長の古道精神を拡大強化、復古神道を鼓吹し、幕末尊王攘夷運動に影響を与えた。著「古史徴」「古道大意」など。

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精選版 日本国語大辞典 「平田篤胤」の意味・読み・例文・類語

ひらた‐あつたね【平田篤胤】

  1. 江戸後期の国学者。通称正吉・半兵衛。号は大角(大壑)・気吹舎(伊吹迺舎)。秋田藩士大和田祚胤の子。本居宣長の没後の門人となり、国学を学び神代文字の存在を唱え、尊皇復古を主張する神道説を説く。その思想は、平田学派を形成し、明治維新の精神的指導力となった。活動範囲は古典研究をはじめ、多岐にわたる。著「神字日文伝(かんなひふみのつたへ)」「古史本辞経」「古史徴」など。安永五~天保一四年(一七七六‐一八四三

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平田篤胤」の意味・わかりやすい解説

平田篤胤
ひらたあつたね
(1776―1843)

江戸後期の国学者。通称は大壑(だいがく)。秋田藩士大和田祚胤(おおわださちたね)(?―1819)の子。20歳で脱藩して江戸に出、備中(びっちゅう)松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子(しし)となり、独学によって国学者として自立し、初め真菅乃屋(ますげのや)、のちに気吹乃屋(いぶきのや)と称した。また本居宣長(もとおりのりなが)の生前に入門したと自称、宣長の学問を古道学と規定し、その後継者をもって自任した。しかし、その文献学的方法は継承せず、日本にのみ正しく伝わった古道を明らかにするという目的のみを共通としたが、宣長が古道を古代の事実とみたのに対して、篤胤は現実的規範と見立てるなど、思想、学問の性格には差異が大きい。その違いは初期の『古道大意』『俗神道(しんとう)大意』(1860)などにすでに現れているが、彼の学問が独特の姿を現すのは、天(あめ)・地(つち)・泉(よみ)からなる世界の始まりを説明して、人は死後、宣長のいうように夜見(よみ)に行くのではなく、大国主(おおくにぬし)神の支配する幽冥(ゆうめい)に行くとして死後の安心を説いた、1812年(文化9)の『霊(たま)の真柱(みはしら)』においてである。このことは、一方では本居門のひんしゅくを買ったが、独自の立場を確立して自信を深めた彼は、インド、中国さらには西洋の神話・伝説をも用いて世界の成り立ちを解明しようとして、『印度蔵志』『赤県(から)太古伝』などを著し、また幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言をも信じ、そこから直接幽界の事情を研究して『仙境異聞』(1822成立)『勝五郎再生記聞』などを書いた。こうして篤胤は宣長の影響を完全に脱し『霊の真柱』の主張を推し進めて、「此世(このよ)は吾人(われひと)の善悪(よきあし)きを試み定め賜はむ為に、しばらく生(あれ)しめ給(たま)へる寓世(かりのよ)にて、幽世(かくりよ)ぞ吾人の本世(もとつよ)」であるとの考えを核心とする『古史伝』を著述するに至る。『古史伝』は未完に終わるが、そこには天主教書の影響があるといわれる。篤胤の思想はむしろ在来の神道思想の系譜を引くものであり、垂加(すいか)神道に対抗するものでもあったが、その実践的な学問は多くの人の支持を受け、1841年(天保12)幕命で秋田藩が国元に帰らせてからも門人は増え続け、553人に達した。

 篤胤の学問は養嗣子の銕胤(かねたね)(1799―1880)をはじめ大国隆正(おおくにたかまさ)、矢野玄道(やのはるみち)らに受け継がれ、明治初期には新設の神祇(じんぎ)官の主流となる。そして、死後の安心を中心とする純粋に宗教的な部分は消え、天皇中心の国粋主義的部分が著しく政治化されて国家神道を支える柱となっていった。

[田原嗣郎 2016年6月20日]

『田原嗣郎他校注『日本思想大系50 平田篤胤・伴信友・大国隆正』(1973・岩波書店)』『田原嗣郎著『平田篤胤』(1963/新装版・1986・吉川弘文館)』『子安宣邦著『宣長と篤胤の世界』(1977・中央公論社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「平田篤胤」の意味・わかりやすい解説

平田篤胤 (ひらたあつたね)
生没年:1776-1843(安永5-天保14)

江戸後期の国学者。幼名正吉。号は大角,気吹之舎(いぶきのや)など。秋田藩の大番組頭,大和田祚胤(おおわださちたね)の四男として久保田城下に生まれる。1795年(寛政7)20歳のとき脱藩して江戸へ出,仕事を転々として生計を立てながら苦学,1800年備中松山藩士平田篤穏(ひらたあつやす)の養嗣子となった。03年ごろ本居宣長の著書に接して感激し,夢の中で宣長から死後の門弟たる認可を得たと称して,05年(文化2)本居春庭に入門する。この間,《呵妄書(かもうしよ)》(1803)を著して太宰春台に反論し,《鬼神新論》(1805)を書いて有鬼論(《鬼神論》)を唱えるなど,後年の独特な学問体系の基礎をかためた。11年師と仰ぐ宣長の学問にふと疑念を抱くという一種の回心を経験したことから,《古史成文》を撰し,《古史徴》の草稿を作り,《古史伝》に着手するなど,師説とはまったく異質な篤胤学の形成に努力を傾注した。国学をいちじるしく宗教化し,宇宙開闢論,幽冥信仰,因果応報思想などを取り入れて,平田神道ともいわれる神秘的な神学体系を作り上げたことに特色がある。そのために宣長学の文献実証主義からは大きく逸脱した。その精力的な活動に猜疑の眼を向けた徳川幕府は,41年(天保12)江戸退去と著述禁止を申し渡し,郷里の秋田に帰った篤胤は,失意のうちに68歳で世を去った。門人約550といわれる平田学派が,幕末の思想運動に与えた影響は無視できない。上記のほか,おもな著作に《本教外篇》《仙境異聞》《霊能真柱(たまのみはしら)》など。
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百科事典マイペディア 「平田篤胤」の意味・わかりやすい解説

平田篤胤【ひらたあつたね】

江戸後期の国学者。出羽の人。秋田藩士大和田家に生まれ,のち備中松山藩士平田氏の養子。号は気吹之舎(いぶきのや)。江戸で学び,本居宣長の死後,その門に入り〈没後の門人〉を自称する。しかし,天地開闢論(かいびゃくろん),〈産霊(むすび)〉観念,幽冥信仰など,実証主義を重んずる師とは異質な説により,しだいに国学を宗教化し,〈平田神道〉ともいわれる神学体系を作りあげた。1841年幕府の忌諱(きい)に触れ秋田に隠居したが,平田学派は地方の豪農層・神官らに広まり,幕末の尊王運動に大きな影響を与えた。著書《古史成文》《古史徴》《古史伝》《古道大意》《歌道大意》《霊能御柱(たまのみはしら)》《本教外篇》《仙境異聞》など。
→関連項目生田万大国隆正国学(近世)古道学佐藤信淵神仏分離中根雪江伴信友復古神道

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朝日日本歴史人物事典 「平田篤胤」の解説

平田篤胤

没年:天保14.閏9.11(1843.11.2)
生年:安永5.8.24(1776.10.6)
江戸後期の国学者。幼名正吉,また胤行。通称半兵衛,のち又五郎。また大角,さらに大壑とも称する。秋田藩士大和田祚胤の4男。8歳のとき漢学を中山青莪に,11歳で医学を叔父柳元に学び玄琢と称した。寛政7(1795)年,20歳のとき脱藩して江戸に出,5年後備中(岡山県)松山藩士平田藤兵衛篤穏の養子となった。篤胤は享和1(1801)年本居宣長に入門したと公称しているが,実際に宣長の名を知ったのは3年だった。同年,宣長学の立場から太宰春台の『弁道書』を批判した『呵妄書』を著したのが著述のはじめで,翌文化1(1804)年,真菅乃屋(同13年,気吹乃屋と改める)と号して講筵を開き3名の門人から出発した。2年,『新鬼神論』を著して神,鬼神の普遍的存在を証明しようとした。4年から,医業を兼ね玄瑞と改めた。5年,神祇伯白川家より諸国神職らへの古学教授を委嘱される。 篤胤は8年ごろから『古道大意』『俗神道大意』『西籍慨論』『出定笑語』として,のちに刊行されるものの基となる講説を次々に行った。9年に脱稿し翌年刊行された『霊能真柱』は,「霊」が死後に「幽冥」へ行くことを証明するために古伝説によって宇宙の生成を説いた。その際『古事記』の本文を改竄するなど宣長とは著しく異なる方法を採った。『霊能真柱』は宣長門人の間に波紋を呼んだ。文政6(1823)年上京,著述を朝廷に献上し,和歌山の本居大平,松坂の本居春庭を訪ねた。同年,吉田家より神職への古道教授を委嘱された。のち尾張藩に接近して仕えたり,水戸藩への仕官を願い出るなどしたが,天保12(1841)年,その著作が幕府筋の忌むところとなり,著述差し止め国元帰還を命ぜられ,秋田藩士(15人扶持,給金10両)となったが,江戸帰還を果たせないまま失意のうちに没した。篤胤の伝記の根本資料としては息子銕胤による「大壑君一代略記」があるが,誤りも少なくない。<参考文献>田原嗣郎『平田篤胤』(人物叢書111)

(飯倉洋一)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平田篤胤」の意味・わかりやすい解説

平田篤胤
ひらたあつたね

[生]安永5(1776).8.24. 秋田
[没]天保14(1843).9.11. 秋田
江戸時代後期の国学者。通称は正吉,半兵衛。号は大角,気吹廼舎。秋田佐竹藩大番組頭大和田清兵衛祚胤の4男。寛政7 (1795) 年脱藩し江戸に出て学業に努め,同 12年に備中松山藩士平田篤穏の養嗣子となった。享和3 (1803) 年本居宣長の書に啓発されて,本居春庭に入門し,国学に志し,処女作『呵妄書』を著わした。翌年家塾真菅乃屋を開いて,子弟の教育にあたった。文化9 (12) 年『霊能真柱』を著わし,その前後に『古道大意』『俗神道大意』『古史伝』など相次いで活発な著作活動を行なった。文政6 (23) 年京都に旅し,おのれの著作を仁孝天皇に献上し,本居大平,春庭に対面し,宣長の墓に詣でた。天保 12 (41) 年江戸幕府から著述の禁止と江戸退去命令を受け,不遇のうちに死んだ。彼の思想は幕末の尊王攘夷運動にも大きな影響を与えた。その他の著書には『出定笑語』や『鬼神新論』 (20) ,『仙境異聞』 (22成立) ,『印度蔵志』 (26成立) ,『平田篤胤全集』 (15巻,1911~18) がある。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平田篤胤」の解説

平田篤胤
ひらたあつたね

1776.8.24~1843.閏9.11

江戸後期の国学者。通称は大角・大壑(だいがく),号は気吹之舎(いぶきのや)。出羽国秋田郡久保田生れ。秋田藩士・備中国松山藩士をへてのち致仕。江戸に出て独学で国学を学び,本居宣長没後の門人となる。1813年(文化10)著の「霊能真柱(たまのみはしら)」以後,死後の霊は大国主命の主宰する幽冥にいくとする死後安心論を展開して宗教化を強め,儒教・道教や洋学の知識を用いて古伝説の再編を行い,独自の立場をうちだした。神官・豪農を中心に553人に及ぶ門人がいたが,晩年は幕府から譴責をうけるなど不遇だった。幕末期の尊王攘夷運動に大きな影響を与え,近代では国家神道を支えるものとして宣揚された。著書「古道大意」「古史成文」「古史伝」「古史徴」。「新修平田篤胤全集」全22巻。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平田篤胤」の解説

平田篤胤 ひらた-あつたね

1776-1843 江戸時代後期の国学者。
安永5年8月24日生まれ。出羽(でわ)久保田藩(秋田県)藩士大和田祚胤(としたね)の子。20歳で江戸に出,備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩士平田篤穏(あつやす)の養子となる。本居宣長(もとおり-のりなが)没後の門人を称する。儒教を批判し,尊王思想をとなえ,幕末の尊攘(そんじょう)運動に影響をあたえた。天保(てんぽう)14年閏(うるう)9月11日死去。68歳。通称は大角,大壑(だいがく)。号は真菅乃屋(ますげのや),気吹乃屋(いぶきのや)。著作に「古史伝」「古道大意」「霊能真柱(たまのみはしら)」など。
【格言など】思ふ事の一つも神に勤めをへずけふや罷るかあたら此世を(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「平田篤胤」の解説

平田篤胤
ひらたあつたね

1776〜1843
江戸後期の国学者。国学四大人 (うし) の一人
秋田藩士の子。本居宣長没後の門人となった。宣長の古道説を継承し,それを体系化し復古神道を唱えた。しだいに国学の学問的態度から離れ,神道的宗教的色彩が強く,実践的であった。幕末の尊王攘夷論者に大きな影響を与え,明治初頭の教学にも重要な役割を果たした。著書に『古史徴』『古道大意』など。

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367日誕生日大事典 「平田篤胤」の解説

平田篤胤 (ひらたあつたね)

生年月日:1776年8月24日
江戸時代後期の出羽久保田藩士;備中松山藩士;国学者
1843年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の平田篤胤の言及

【国学】より

…宣長学がその核心部分に一つの思想原理を所有していたゆえんである。まさにその〈道〉への志向性を強烈に,また極端におしすすめたのが,文化年間,宣長の死後の門弟と自称し,宣長学の正統を継承したと揚言して一家言をとなえた平田篤胤(ひらたあつたね)であった。この篤胤学は多くの点で宣長学とは異質である。…

【古史徴】より

平田篤胤(あつたね)の国学書。1819年(文政2)刊。…

【古史伝】より

平田篤胤(あつたね)の国学書。1812年(文化9)ごろ初稿が成ったが,生前未完,死後門人の手で完成された。…

【古道大意】より

平田篤胤の古道すなわち日本古来の道についての講説を,門人が筆録した書。2巻。…

【心霊学】より

…その後まもなく心霊主義と袂を分かった心霊研究psychical researchは,やはり霊媒を対象に研究を続けたが,死後生存の証明は結局できないまま,その後確立された超心理学的方法にしだいに道を譲り,現在に至っている。 日本でも古くから心霊現象の存在が報告されてきたが,江戸末期の国学者平田篤胤らの客観的な記述による調査研究(例えば《仙境異聞》《勝五郎再生記聞》)はあったものの,科学的な研究が開始されたのは明治期以降である。1884年,東京帝国大学の井上円了は,文明開化の風潮の中で,妖怪学の研究に着手,86年には同大学に〈不思議研究会〉を開設した。…

【仙境異聞】より

平田篤胤(ひらたあつたね)の神道書。別名《寅吉(とらきち)物語》。…

【復古神道】より

…それが契沖らによって唱導された国学の勃興である。国学は伏見稲荷大社の祠官荷田春満(かだのあずままろ),春満の門人賀茂真淵,真淵門人本居宣長,宣長門人平田篤胤によって学派的に継承され,この4人を世に国学の四大人と称する。この4人の学風にはそれぞれ相違があるが,いずれも古語・古文辞の実証的研究者つまり日本のフィロロジストphilologistであった。…

【本教外篇】より

平田篤胤の神道書。別名《本教自鞭策(じべんさく)》。…

※「平田篤胤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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