足利政氏館跡(読み)あしかがまさうじやかたあと

日本歴史地名大系 「足利政氏館跡」の解説

足利政氏館跡
あしかがまさうじやかたあと

[現在地名]久喜市本町七丁目

第二代古河公方であった足利政氏の館跡。加須かぞ低地周辺部の埋没ローム台地上、標高約一三メートルに構築されていた。永正九年(一五一二)六月、政氏は子の高基と争って古河を追われ、下野小山祇園ぎおん城の小山成長を頼った。しかし政氏は同一三年に成長の跡を継いだ政長のために祇園城を追われ、下総今里いまざと(現茨城県八千代町)円福えんぷく(中世末に現下妻市に移転)を経て、岩付いわつき(現岩槻市)の扇谷上杉朝良を頼った(「円福寺記録」内閣文庫蔵)。政氏は岩付滞在中に出家し、法名吉山道長を名乗った(閏一〇月二八日「道長書状」臼田文書)。同一五年四月、上杉朝良が没すると、最大の庇護者を失った政氏は、同一六年に久喜館に移り寺を建て隠棲したと考えられる(延宝九年「甘棠院由緒書上」甘棠院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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