鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は,1454年(享徳3)関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり,鎌倉を逃れ下総古河に御座を構えた。これ以後の成氏およびその後継者を古河公方と呼び,それ以前の鎌倉公方と区別するのが普通である。成氏は,天然の要害たる古河を拠点にその背後にひかえる下総,下野,常陸などの豪族層や国人層の援助を受けて,堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知を頂点に武蔵,相模,上野の中小武士層を基盤とする上杉氏勢力に対抗した。この間の内乱を享徳の乱と呼ぶ。それは,82年(文明14)の都鄙和睦の成立による成氏と幕府・上杉氏との和睦まで続いた。古河公方家は,成氏以後政氏,高基,晴氏,義氏と歴代の公方によって継嗣された。いずれも将軍家からの偏諱(へんき)を受けた。政氏は,上杉氏勢力との妥協を図ったが,子の高基,義明らとの数次にわたる抗争をくりかえし,公方家の弱体化を招いた。また高基は,小弓(おゆみ)公方足利義明との対立から新興勢力たる北条氏と関係を持ち,その子晴氏は,北条氏綱の娘を妻とするというぐあいであった。そのころから後北条氏との関係が重大化し,最後には晴氏と北条氏綱の娘との間に生まれた義氏が古河公方家を継嗣することとなった。古河公方家は,義氏が1582年(天正10)嗣子なく没したことで断絶し,わずかに幼少の氏姫が足利氏を襲封するにとどまった。90年豊臣秀吉の小田原征伐の過程で,小弓公方家が喜連川氏(きつれがわうじ)として再生し,その翌年秀吉の仲介で氏姫と喜連川氏との間で婚姻関係が成立し,喜連川氏が関東足利氏の嫡流となった。古河公方家は,門地格式の高さから貴種として存在し,関東政治史に特異な役割をはたし,それは高家(こうけ)としての喜連川氏に受けつがれていった。
執筆者:佐藤 博信
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下総(しもうさ)古河(茨城県古河市)に拠(よ)って勢力をもった足利(あしかが)氏。足利成氏(しげうじ)とその子孫をいう。永享(えいきょう)の乱後、1449年(宝徳1)に鎌倉公方(関東公方)として迎えられた成氏は、父持氏(もちうじ)を討った上杉憲実(のりざね)の子の関東管領(かんれい)上杉憲忠(のりただ)を殺害したため、幕府の追討を受け、1455年(康正1)下総古河に逃れた。これより成氏を含め政氏(まさうじ)、高基(たかもと)、晴氏(はるうじ)、義氏(よしうじ)の5代は、ここを根拠地として活動したため古河公方とよばれた。古河公方成立当初は、北関東の豪族などの支持を得ていたことから勢力もあり、幕府より関東統治のために派遣された堀越(ほりこし)公方足利政知(まさとも)(将軍義政(よしまさ)の弟)や上杉氏らと対抗しえた。しかし後北条(ごほうじょう)氏の進出や、古河公方家の内紛で一時期古河を離れるなどの結果、しだいにその勢力は衰退していった。義氏期になると完全に後北条氏の支配下に入り、その門地により地位を保っていたが、1583年(天正11)義氏に嗣子(しし)なく古河公方家は滅亡した。1590年古河公方家の断絶を惜しんだ豊臣(とよとみ)秀吉は、義氏の娘(鴻巣(こうのす)御所)に高基の弟義明の孫国朝(くにとも)を配し、下野(しもつけ)(栃木県)喜連川(きつれがわ)(もと狐(きつね)川)に領地を与え再興した。以後この子孫は喜連川氏を称した。
[小要 博]
『『神奈川県史 通史編1 原始・古代・中世』(1981・財団法人神奈川県弘済会)』▽『『古河市史資料 中世編』(1981・古河市)』
室町中期~戦国期に下総国古河(茨城県古河市)に存続した,足利成氏(しげうじ)とその子孫の鎌倉公方。成氏は,享徳の乱で関東管領上杉氏および執事長尾・太田両氏と対立し,1455年(康正元)武蔵国分倍河原(ぶばいがわら)(東京都府中市)の戦で上杉方に勝ち,3月に下総国古河に着陣。6月に幕府から成氏追討軍として送られた今川範忠(のりただ)が鎌倉に入ったため,成氏は古河を御座所として古河公方とよばれた。成氏の後は政氏,高基,晴氏,義氏,義氏の女古河氏姫と続いた。1590年(天正18)に後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は,古河氏姫と高基の弟小弓(おゆみ)御所足利義明の孫国朝を婚姻させ,下野国喜連川(きつれがわ)に知行地3500石を与えた。93年(文禄2)国朝が没すると氏姫はその弟頼氏と再婚。子孫は喜連川氏を称し,江戸幕府の高家(こうけ)として続いた。
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…鎌倉公方は,ここに滅んだ。
[古河公方,堀越公方]
その後,鎌倉公方は,結城合戦をへて49年(宝徳1)に持氏の遺子成氏によって復活をみたが,成氏は54年(享徳3)12月関東管領上杉憲忠を謀殺したことで,幕府から追討を受ける身となり(享徳の乱),下総古河に居を移し,古河公方となった。幕府は,成氏に代えて新たに鎌倉公方に足利政知を任じ,軍事統率権や土地安堵権などの諸権限を授けて鎌倉に下向せしめたが,鎌倉に入部することができず伊豆堀越(ほりごえ)にとどまった。…
…しかし東国の武士層は必ずしも政知に服さず,伊豆の堀越に居を構え,鎌倉に入ることはできなかった。以後成氏は古河公方,政知は堀越(ほりごえ)公方と呼ばれた。関東管領上杉房顕らは堀越公方政知を奉じて成氏としばしば合戦に及んだが,房顕は66年(文正1)没し,越後守護上杉房定の子顕定がその跡を継いだ。…
…これは北条氏の幕府内部での勢力が強大になり,得宗およびその御内人(みうちびと)と御家人との摩擦が強まる過程で,得宗や〈御内〉と将軍とを区別する意図で,多少とも意識的に使われた形跡があり,おそらく安達泰盛の関与があったものと推定される。しかしこののち,鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府を通じて将軍を公方とよぶ用法が定着し,さらに鎌倉府の足利基氏の子孫も関東公方,鎌倉公方,さらにその分裂後は古河公方,堀越公方といわれ,鎌倉から奥州に下ったその一族も稲村公方,篠川公方とよばれた。 一方これとは別に,鎌倉後期以降,荘園・公領の下地に対する寺社本所,あるいは地頭の一円支配が進行するとともに,そうした一円化した荘園・公領の支配者を公方とよぶ用例が急速に増加しはじめる。…
…千葉胤直は成氏を支持して転戦する。
[古河公方]
1455年(康正1)幕府軍に追われた成氏は下総古河城に移り,古河公方(こがくぼう)と称した。その後胤直は上杉支持にまわり,胤直の叔父で成氏方の馬加(まくわり)城主馬加康胤と対立,胤直・胤宣父子は敗れて千葉城より千田荘に逃れともに自殺する。…
…このうち鎌田西仏については浅草寺(東京都台東区)に彼が奉納したと伝えられる大型板碑が現存している。1457年(長禄1)には関東公方足利成氏が鎌倉を追われて下河辺荘内の古河城に入り,以降古河公方と呼ばれている。【段木 一行】。…
…ところが54年(享徳3)12月成氏は関東管領上杉憲忠を殺し,関東は再び享徳の大乱へと突入する。幕府はただちに成氏追討を決め,鎌倉を退避した成氏は北関東の伝統的豪族層に擁され,以後下総古河を御座所としたため,古河公方と称された。一方,上杉氏は守護国上野,武蔵などの一揆勢力を基盤とし,おおむね利根川をはさんで対峙した。…
※「古河公方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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